第4話 料理人、毒を煮る
夜半の厨房は、まるで墓のように静かだった。
油の匂いも、肉の焦げる匂いもない。
あるのは鉄と冷気の匂い――殺意を包む金属の光。
焚き残りの火が赤く点っている。
その火の前に、俺とモフだけがいた。
外の回廊から、金属靴の音が響いてくる。
衛兵が交代する音だ。間もなく王の晩餐に使う食材が搬入される。
「モフ、音を立てるなよ」
モフは小さくぷるんと震え、表面を薄くした。
透明度が上がると、ほとんど空気と見分けがつかない。
古書を開き、指先を舐める。紙面がうっすらと光り始めた。
『毒草:黒涙草
真名〈母なる恐怖〉
恐怖を煮詰めよ、煮え切らぬままでは命を蝕む。
恐怖を調理する名――〈抱擁〉』
「……抱擁、ね」
呟いた声が闇に溶けた。
毒を“抱く”なんて発想、料理人としてはあり得ない。
だがこの古書は、常識の外側にこそ真実を置いてくる。
◇
夜明け前、搬入された食材の中に、細い茎の束があった。
黒涙草。
見た目はただのハーブだが、根の部分には猛毒がある。
料理長ドメルの差し金だ。
王を毒殺し、その罪を俺に着せるための“舞台装置”。
だが――この毒を、俺が料理すればいい。
毒を毒のまま出せば、殺意。
毒を抱いて煮れば、薬になる。
「さあ、モフ。やるぞ」
モフが淡く光る。
俺は黒涙草の根を刻み、香草〈灰眠〉と混ぜ合わせた。
鍋に水を張り、火を弱くする。
高温では毒が飛び、ただの苦味になる。
低温で、ゆっくり。恐怖を眠らせるように。
鍋の上に白い煙が立ちのぼる。
古書の文字が浮かぶ。
『恐怖を抱きし火、いま穏やかに燃ゆ。
毒性転化――〈抱擁〉発動。
効果:毒素を吸収した者の“真意”を暴く。』
「……真意を暴く?」
理解するより先に、厨房の扉が開いた。
ドメルが現れた。
後ろには、銀鎧の衛兵が二人。
顔には自信と嘲りが混じっている。
「何をしている? その鍋の中身は?」
「スープです。陛下のご命令どおり、王の体調を整える薬膳を」
「ほう……。それにしては香りが重いな」
ドメルは鍋を覗き込み、杓文字を取った。
ひとすくい、舌に乗せる。
そして――笑った。
「ふ、悪くない。だが少し苦いな。味見しておこう」
彼の笑みが凍る。
瞳が見開き、全身が硬直した。
唇が震え、苦悶の声が漏れた。
「な……なぜ……!?」
「それが“抱擁”の味です」
俺は静かに言った。
モフが彼の足元を囲むように揺れ、淡い光の輪を作る。
古書の文字が燃えるように輝いた。
『嘘を抱く者は、抱擁に焼かれる』
ドメルの口から、こぼれた。
「王を……殺せと……言ったのは……リウス……」
衛兵たちが慌てて駆け寄るが、もう遅い。
彼の体から黒い煙が立ちのぼり、やがて静かに倒れた。
煙が消えた後、香りだけが残った。
苦味の奥に、どこか甘い匂い。
まるで“赦し”のように。
◇
翌日の晩餐。
王の前に運ばれたのは、昨夜と同じスープ――ただし、完全な形に仕上げたもの。
王は一口、口に含み、微笑んだ。
「この味……心が静まる。
苦くも甘い。不思議だ。まるで人の罪と赦しのようだな」
「毒を煮ました」とは言えない。
俺はただ深く頭を下げた。
「料理は、火の中に隠れたものを映す鏡です。
恐れも、欲も、煮詰めれば味になります」
王は静かに頷いた。
参事官リウスの顔が青ざめていく。
彼の指先が震え、声が掠れた。
「……ドメルが、戻らぬのは……?」
「彼は抱擁の味を知らなかった。それだけです」
リウスの喉が鳴る。
次の瞬間、王が席を立った。
「カイ。王国の厨房を任せる。
これからは、お前の鍋で民の心を煮ろ」
「……畏まりました」
――その瞬間、俺は理解した。
“料理”は、もう人を満たすためのものではない。
人を導く力になってしまったのだ。
◇
夜。
モフが火のそばでぷるぷると震えている。
その体の奥に、小さな赤い光が灯っていた。
まるで心臓のように、規則正しく鼓動している。
「お前も、抱擁の火をもらったのか」
モフが小さく鳴いた。
俺は古書を閉じ、ページの最後の一文を見つめた。
『毒を抱いた者は、真の料理人となる。
次なる名を求めよ――〈神饌〉』
――神のための料理、か。
月明かりが窓を照らす。
外では、王都の鐘が静かに鳴った。
新しい時代の始まりを告げるように。




