第2話 食卓は国境を越えて
辺境へ向かう街道は、秋の風に色づいていた。
背の高い穀草が左右に揺れ、風の音がまるで海の波みたいに寄せては返す。
その真ん中を、俺とモフ――調味スライム――はのんびり歩いていた。
「オークの集落って、どんな味がするんだろうな」
モフがぴょこんと跳ねた。
言葉を理解しているのか、単に同意しているのかはわからない。でも、リズムがいい。
旅の相棒としては、これ以上ない。
依頼書によれば、王都の使節団がオーク集落と「宥和交渉」を行うらしい。
数年前までは敵国同然だった種族だ。
それが、ここ数年で交易を求めてきているという。
交渉の鍵は“食事”――つまり、宴だ。
人とオーク。
長く敵対してきた種族同士が、同じ鍋を囲む。
火を挟んで座るというのは、最初の信頼だ。
――料理は、言葉の前にある。
◇
三日後、俺はオークの集落に着いた。
木柵の向こうで、背丈の倍はある緑皮の巨体たちが石を積み上げている。
門番が鼻を鳴らして俺を見下ろした。
「人間、何の用だ」
「依頼で来た料理人だ。王都からの使いでね」
差し出した通行証をしばし睨んだのち、オークは渋々頷いた。
「中へ入れ。ただし、鍋の火は我らが見る。勝手に触るな」
……なるほど。火は彼らにとって“魂”の象徴だと聞いたことがある。
その扱い方を間違えれば、交渉どころか命も危うい。
集落の中央、祭祀場のような広場に案内されると、すでに人間の使節団が準備を始めていた。
真紅の外套を着た若い男が、俺に気づいて声をかける。
「君が料理人か? カイだな」
「ええ。あなたが代表ですか」
「王都外交官、ライアン。――正直に言うが、あまり期待はしていない」
彼は苦笑して腕を組んだ。
「オークたちは“人間の味”を信用していない。肉を焼けば焦がすし、塩加減も知らんと」
「そりゃ困ったな。火と塩の機嫌は、誰にでも気まぐれです」
軽口を返すと、ライアンの目がわずかに細まった。
その奥に、「試してやる」という色が見えた。
◇
オークの長老が現れた。
白い牙が並び、眼光が鋭い。
彼の隣には、若い戦士の娘――銀灰色の髪をしたオークが立っている。
その目には敵意よりも、好奇心が混じっていた。
「人間の料理人か。名を名乗れ」
「カイ。……料理で、挨拶させてもらってもいいか」
俺がそう言うと、長老はしばらく沈黙してから頷いた。
「ならば“肉”を使え。我らが狩った獣の恵みだ。
火は我らの聖域、だが……その味が我らを笑わせたなら、交渉を続けよう」
彼が指さしたのは、黒毛の巨大な獣――山猪だ。
皮を剥ぎ、血抜きが終わったばかり。
脂が照り、まだ野生の匂いが濃い。
俺は腰に下げた古書を開く。
紙面の上に、淡い金文字が浮かぶ。
『山猪:真名〈怒る森の雷〉
怒りは熱、熱は旨味。
怒りを鎮める名は――〈森眠〉』
俺は指先を舐め、唾液を火の上に落とした。
火が小さく鳴り、まるで承諾のように赤を深める。
そして静かに呟く。
「怒る森の雷よ、眠れ――〈森眠〉」
肉を吊るし、香草と根菜を混ぜた泥で包む。
モフがその泥の表面を舐め、塩を均一に散らす。
火の中に埋めた瞬間、煙が甘く変わった。
焦げ臭さが消え、花蜜みたいな香りが鼻をくすぐる。
オークたちがざわつく。
煙の色が“白”から“金”に変わったのだ。
彼らにとって、金煙は“火の祝福”を意味する。
「……人間の火が、祝われた……?」
娘のオークが、息を呑んだ。
◇
夕刻。
肉を掘り出し、表面の泥を叩くと、湯気がもくもくと上がった。
皮のような外側を割れば、中から肉汁が光を放ちながらあふれ出る。
ナイフで切り分けると、香草の香りが風に乗って広がった。
「どうぞ」
俺は最初の一切れを、長老に差し出した。
彼は鼻を鳴らし、一口だけ噛む。
……瞬間、表情が変わる。
「柔らかい。怒りが、ほどけておる」
その言葉に、集落全体がざわめいた。
他のオークたちも我先にと肉を奪い合い、笑い声が起きる。
酒が回り、焚き火が高く燃える。
「人間の料理人、貴様の鍋は火を従わせた。
今日より、我らは王都との交渉を受け入れる」
長老がそう宣言すると、ライアンが目を丸くした。
俺は静かに一礼し、心の中で小さくつぶやいた。
(鍋は扉、火は鍵。
唾液は契約――今日もまた、ひとつの契約が結ばれた)
夜空を見上げると、満月が湯気のように滲んでいた。
モフが跳ねて、俺の足元にまとわりつく。
その体の奥で、金色の火花がひとつ、灯っていた。




