第10話 最後の一椀(ひとわん)—空席の主へ
夜明け前、王都の空が白むより先に、鐘は三度鳴った。
広場では昨日の大鍋がそのまま待っている。石畳には“半分返し”で擦れた木椀の跡、拍を刻んだ手のひらの熱が残っていた。
役所の前に長机が出され、空席簿が開かれる。
各区の世話役が列をなし、名と場所を書き込んでいく。
〈今夜の食卓に空いた席が一つ。持ち寄り可。新参歓迎。〉
空席は罪ではない。合図だ――それが都の約束になった。
厨房隊は火床を起こし、衛味院は水場を清め、塩連合と連邦運送は匙印の通る荷札を縛り直す。
リウスは監査簿を胸に抱え、短く言った。
「滞らせない。それだけだ」
俺は頷き、鍋の底にモフを走らせた。
光核が淡く明滅し、湯の膜が朝の呼吸を覚える。
――その時、音が一つ、都から抜け落ちた。
空気が薄くなり、湯気がおののく。
街角の布告板に、黒い影が立つ。
黒い匙を胸に差した女――断食の主だ。
「来たか」
サーシャが身構え、レムが祈りの姿勢を取る。エリスは井戸の縁から目を離さず、指先で滴言を続ける。
リウスは木匙を軽く叩き、広場の拍を息で揃えた。
女は、笑った。笑いにはまだ味がない。
「昨夜は見事だったわ。匂いを奪えば音、音を奪えば触。
けれど、視はどう?」
女が指を弾くと、広場の四隅から薄い幕がするりと降りた。
湯気を霞ませ、鍋の中を“見えなく”する。
列がざわめく。子どもが背伸びし、老人が目を細める。
「見えなければ、疑いが育つ。疑いは、空席の双子よ」
女は黒い匙の柄を撫でた。
石畳が乾いて、拍が弱る。
「疑い、ね」
俺は蓋に手を置き、低く息を吸った。
視を奪われたなら――記憶を炊けばいい。
「皆、言ってくれ。昨夜、誰と半分を分けたか。
何の匂いだったか。どんな音で、どんな温度で、どんな顔だったか」
最初に声を出したのはミナだった。
「おばあちゃんと。甘いの。拍は“コン”。あったかくて、笑ってた」
続いて、兵が言う。「市場の男と。麦と塩の匂い。拍は楯で“ドン”。汗の味がした」
修道女が言う。「病の娘と。苦いのに甘い。掌が冷たくて、最後には温かかった」
声が次々と重なる。
半分返しの記憶が、湯気よりも確かな湯気を立てた。
モフが鍋底でそれを受け取り、薄膜に文字のような波紋を走らせる。
鍋の中に、昨夜の輪が戻ってくる。
「見えないなら、憶えて食うまでだ」
女の目がわずかに揺れた。
黒い匙の色が、ほんの少し薄くなる。
「あなたは頑なに席を埋めようとする。
でも私は空席の神。空いた席の前で、人は跪く。
跪きは秩序。秩序は安心。安心は服従。服従は……静けさ」
「静けさは、悪くない。
ただ、腹が鳴らなければ、死ぬ」
俺は女を見た。
女の頬は乾いて、目の奥は飢えていた。
黒い匙の影が、胸元でうっすら震えている。
「あなたは、どこから来た?」
女は一瞬、黙った。
湯気の向こうの声で答える。
「空の椀から。
食卓の端に置かれた、誰にもよそわれない席から。
冷えた皿、触れられない塩、ひび割れた水差し。
人々が目を逸らす、穴」
「なら、穴を招きに変えよう」
俺は鍋の縁を指で叩き、広場に声を投げた。
「都中の食卓で、今夜から一席だけ必ず空ける。
空けた席は“招席”――遅れてきた者、迷ってきた者、帰ってきた者のための席だ。
空いたままなら、次の家へ半分を持っていく。
空席は穴ではない。招きだ」
空席簿の係が顔を上げ、リウスが頷き、木匙の印を空席簿の端に押す。
〈空席は招席と呼ぶ。空けば動く。〉
ルールは短いほど強い。
「真名で呼ぶ」
俺は鍋の内側に手をかざし、ほとんど喉で呟いた。
席の真名〈招〉。
それは“こちらへ”と手を差し伸べる動詞の味だ。
湯がふっと膨らみ、音も匂いも温度も、席の周りだけ少し明るくなる。
広場の端で、見知らぬ者が立ち止まり、招席に腰を下ろした。
椀が差し出され、半分が戻る。
女の目の奥で、跪きがほどける音がした。
「……空席を、招く席に」
女の声に、初めて旨味が混じった。
その刹那――モフが光った。
光核が花のように開き、薄膜がふわりと分かれて、街じゅうの鍋へ飛んでいく。
噴水の縁、小路の角、寺の台所、橋のたもと――小さなモフが、どの鍋にも薄く一枚、膜を張った。
『主。友餐は、街規模で沸く』
耳の奥でモフの声が響く。
湯が都をつなぎ、拍が屋根を渡り、温度が通りを走る。
女はその気配に、わずかに膝を折った。
黒い匙が泣く。乾きが音を立てて割れる。
「あなたにも、席がある」
俺は柄を握り、最後の小鍋を据えた。
水は境界の露、麦は昨夜の半分、塩は濡れていない白。
香草〈灰眠〉をほんのひとかけ、拍は“カン、コン、クン”。
友餐の名を、低く通す。
「――最後の一椀。あなたへ」
女は躊躇い、黒い匙を胸から外し、手に取った。
匙の黒はもう淡い灰だ。
椀を口に運び、一口。
喉が、動いた。
目に、水が滲んだ。
頬に、温度が戻った。
黒い匙が解け、色のない金属に変わる。
女は椀を抱えたまま、低く息を吐いた。
「……席って、あったのね」
その言葉に、広場の拍が一つ増えた。
鐘が短く鳴り、噴水が二拍を返す。
子どもが椀を叩き、老人が笑い、兵が楯を鳴らし、聖が鈴を振る。
都の心拍が、ひとつの食卓に束ねられた。
女――かつての断食の主は、椀を差し出した。
「半分、返すわ」
俺は受け取り、もう半分を彼女に戻した。
半分返し。
それは、支配の否定であり、関係の肯定だ。
◇
大鍋の火が少し落ち着いた頃、リウスがそっと近づいた。
木匙の柄に新しい刻印が増えている。麦粒、十字、盾に加えて、空椅子。
「空席簿、常設にする。招席は必ず一つ残す。
厨房隊は各区に“招席鍋”を置け。
俺は――握らない。流れを見続ける」
「頼んだ」
エリスが井戸の蓋を撫で、サーシャが剣の代わりにお玉を腰に差す。
レムは祈りの最後に「ごちそうさま」を覚え書きし、ミナは木匙を首に下げたまま眠そうに瞬きをした。
「カイ」
エリスが名を呼ぶ。
湯気の向こう、彼女は昔と同じ、でも少し違う笑顔で立っている。
「あなたの席、いつも隣に空けておく」
胸の奥で、鍋が鳴った。
俺は笑い、短く頷いた。
「――毎晩、遅れるかもしれないけどな」
「半分、残しておくから」
言葉が、予約になった。
◇
昼下がり、都の空は明るく、高かった。
街じゅうの鍋で、モフの薄膜が静かに光る。
配る匙は道を作り、招席は席を動かし、空席簿は街をゆっくり呼吸させる。
黒かった匙は、今はただの金属の匙だ。
俺はその匙を自分の木匙に結び、紐を固く締めた。
モフが肩で光核を瞬かせる。
『主。新しい言葉、要る』
「ああ」
俺は鍋の前に立ち、都に向けて、いつもの言葉を唱えた。
鍋は扉、火は鍵、唾液は契約、匙は道、席は約束――そして、
「隣は祝福だ」
湯が、よく沸いた。
都の心拍が、よく通った。
最後の一椀は軽く、しかし確かに満腹を運んだ。
食卓の真ん中で、世界は今日も、いい音で沸き続ける。
(了)




