9
三日目の午後、森に足音が戻ってきた。
ザッ、ザッ、と、湿った落ち葉を踏みしめる音。
それはルオの耳に、空気が震えるよりも先に届いた。
――エルネストだ。
ルオは木陰から姿を見せることもなく、ただじっと待った。
その足音が、あの人のものであるかを、確かめるように。
足音が止まり、少しして――
「……ルオ、いるか?」
低く、優しく、懐かしい声。
それだけで、身体の奥から緊張が解けた。
胸の奥がきゅうっと締めつけられ、三本の脚で思わず立ち上がる。
ガサガサと、草をかき分けて、いつもの場所へ駆け寄る。
そこに、いた。
エルネストは以前と同じように、やや重そうな荷を背負い、服の裾は泥で濡れていた。
少しだけ、顔に疲れが見える。
でも、笑っていた。
「……ただいま」
その言葉に、ルオは答えられない。
けれど、答えようとする心は、確かにそこにあった。
彼は一歩、また一歩と近づき、
エルネストの足元で身体を横たえると、鼻先をそっと彼の靴の横に置いた。
それは獣にとっての、ただ一つの「帰りを喜ぶしるし」だった。
「待っててくれたんだな」
エルネストが小さくつぶやく。
その声に、ルオは一度だけ尻尾を揺らす。
その日の夜、ふたりは焚き火を囲んでいた。
エルネストは布包みから、小さな果物を取り出してルオの前に置いた。
村で見つけたという、ほのかに赤い実。
ルオはそれに鼻を寄せ、一粒、口に含む。
甘さと酸味。
やわらかな果肉が舌に広がり、思わず瞳が細くなる。
「気に入ったか?」
その声に、ルオは顔を上げる。
そしてほんの少しだけ、前脚で地面をかくような仕草を見せた。
それは、「もっと食べたい」とも「ありがとう」とも取れる曖昧な動き。
でもエルネストには、ちゃんと伝わった。
「……じゃあ、おまえの分、取っておいてよかった」
エルネストがまた笑う。
その笑顔はどこか、これまでと少し違っていた。
優しさに加えて、なにか“確信”のような色が混じっていた。
焚き火の炎が揺れる中、エルネストはぽつりと話し始めた。
「……村にいたとき、何人かに“森で暮らしてるって、本気か?”って笑われたよ」
ルオは耳を動かして、声に集中する。
「前ならあいつらに何か言い訳じみたことを言ったかもしれない」
薪をくべながら、エルネストは続ける。
「……たぶん、もう“ここ”が、自分の居場所だって思ってるんだな。気にもならなかったんだ」
(……)
「おまえがいるからだ。……不思議だけどな。何も喋らないし、表情もわかりにくいのに、こんなにも安心できるとは思わなかった」
ルオは、ゆっくりと身体を伸ばして火に近づき、
そのまま、エルネストの膝のそばに身体を預けた。
暖かさが伝わる。
それは焚き火の熱ではなく――誰かがそばにいるという、確かな実感。
エルネストはその頭をそっと撫でながら、小さくつぶやいた。
「あえて、よかった」
(……僕も、ありがとう)
言えないけれど、
その想いは火の温もりの中に溶けていった。
夜が深くなった頃、ルオは焚き火の向こうで眠るエルネストを見つめながら、そっと自分の背を丸めた。
この人が、またいつかいなくなるかもしれない。
そう思うと、胸はざわめく。
けれど今は――その「また」を怖がりすぎない自分がいる。
それはきっと、「帰ってきてくれた」という事実が、
傷の上にあたたかい布のように降りたから。
信じることの、はじまり。
それは、傷が癒える音がしないまま、
ゆっくりと、共に暮らす時間に溶けていく。