6
「なあ、ルオ。……その腕はどうしたんだ?」
その日、エルネストは珍しく、自分からそんな言葉をこぼした。
焚き火の前。
昼を過ぎ、陽が傾きかけていた。
ルオは、彼の足元で丸くなっていた。
日差しの温もりを背に受けながら、半分眠りかけていた身体が、ふとその声に反応する。
目を開ける。
声の意味は、当然わかっていた。
でも、動かない。
エルネストはルオに返事を求めていなかった。
ただ、静かに火を見つめながら言葉を続けた。
「……昔、仲間を助けられなかったことがある。判断が遅れて。目の前で、若いやつが一人、死んだ」
焚き火が、ぱち、と小さくはぜる。
「そいつには妹がいた。『あなたを信じてたのに』って、顔に書いてあったよ。あの子の前じゃ、俺は何を言っても言い訳にしかならなかった」
ルオは、ゆっくりと頭を持ち上げて彼を見た。
いつものように近くで座っていたが、今日のエルネストはどこか、少し違っていた。
背を丸めて、火を見つめる目が、遠い過去を見ていた。
「それからだよ。村を出たのは。……誰かに『信じてる』って顔をされるのが、怖くなったんだ」
(……僕と、似ている)
ルオはそう思った。
違う形の痛み、違う出来事。でも、傷の奥にある“感情”は――重なるものがあった。
信じられて、応えられなかった。
信じて、裏切られた。
どちらも、同じように心を裂く。
だからきっと、僕らは似ていた。
「でもさ――おまえには、何も期待してないよ」
エルネストはふっと、わずかに笑って言った。
「喋らなくていいし、礼もいらない。おまえがそこにいてくれるだけで、俺は……少しだけ、楽になるんだ」
ルオの胸が、熱くなった。
(僕も……そう。エルネストが、ここに来てくれるだけで、世界が柔らかくなるんだ)
伝えたい。
けれど伝える手段はない。
それでも、伝えたい。
ルオは、立ち上がって小さな歩幅で一歩、エルネストの方へにじり寄った。
エルネストは少し驚いたようだったが、すぐに気づいた。
「……寒いか?」
彼がそっと広げた毛布の端を、ルオは前脚でぽんと叩いた。
「なるほど。そういう日か」
微笑みながら、エルネストは焚き火の横に自分の肩掛けを畳んで、地面に敷いた。
ルオはそこに、するりと身体を沈める。
まるで、何年もこうしてきたかのように、自然な動きだった。
火の光が、ふたりを包む。
ふと、ルオは思った。
(人間に、もう一度生まれ変わりたいとは思わないけど……)
(こんなふうに、誰かとただ一緒にいられるのなら――)
その想いが、言葉にはならないまま、
でも心の奥に、ゆっくりと沈み、静かに灯っていく。
その夜、ルオは久しぶりに夢を見なかった。
眠りの中に音はなく、映像もなかった。
ただ、心が安らかで、真っ暗な深い海の底のように、静かだった。
目が覚めたとき、焚き火の残り香と、ほんのり温かい土の感触があった。
そしてその横には、背を向けて眠るエルネストの姿。
その背中を見ながら、ルオは小さく、ほんの小さく、尻尾を一度だけ揺らした。
それは彼にとって――「ありがとう」という言葉に、一番近い動きだった。