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「昨日より早いな、ルオ」
エルネストがそう言ったのは、まだ昼の鐘が森に響くより前のことだった。
いつもの道を歩いてくると、既に小さな三本脚の影が、陽の差す木漏れ日のもとにちょこんと座っていた。
ルオは、顔を上げてエルネストを見た。
そして、少しだけ尻尾を揺らす。
ほんのわずかな動き。
でも、それがルオにとっての“おはよう”であり、“会えてよかった”のあいさつだった。
エルネストはそれをちゃんと感じ取って、ゆっくりと笑う。
「パンじゃなくて、今日は芋を焼いてきた。こっちのほうが腹に溜まるからな」
そう言って布包みを開くと、ほくほくと湯気の立つ蒸し芋の香りが、森に広がった。
ルオの鼻先がわずかにぴくぴくと動く。
体を揺らさぬよう気をつけながら、地面を掘るような動作で数歩前に進んだ。
食べ物は、もうエルネストの手からでも怖くないと思う。
けれど、食べている間に、不意に襲われた記憶が頭をよぎる。
だから、ルオはいつも少しだけ距離を取っていた。
「信頼」は、心の中で芽吹いても、行動としては少しずつしか形にならない。
それでも、同じ場所に座って、一緒に食事をすることが当たり前のように続いている。
それだけで、きっと世界は変わっていく。
昼が過ぎ、風が湿り気を帯びてくると、エルネストは木陰に背を預け、ふぅ、と息をついた。
「……疲れる歳になったな。昔は朝から晩まで走ってたってのに」
ルオはその声を聞きながら、そばに生えていた草を前脚でかき寄せ、口にくわえて運んでいた。
それは、巣材になるような柔らかい草。
普段なら夜の寝床に使うだけだが、今日はなぜか、エルネストの足元にそっと置いた。
「……これは、くれるのか?」
ルオはなにも言わず、ただそのまま動かない。
(ここで、寝るなら。下が冷たいから)
そう思った。伝わらないかもしれないけど、それでも。
エルネストはしばらくその草を見つめていたが、やがて、ポケットから小さな手ぬぐいを取り出して、それを草の上に敷いた。
「そっちは、おまえの分。俺は布のほうに座る」
ルオの心が、不意にふわりと軽くなる。
言葉にしなくても、ちゃんと“伝わっていた”。
しばらくふたりは、何も話さず、何も動かず、ただ同じ木陰に座っていた。
時間が流れる音が聞こえる。
葉が揺れ、風が匂いを運び、小鳥の羽ばたく音がどこかから届く。
こんなにも静かな世界があるのだと、ルオは初めて思った。
誰かと一緒にいるのに、怖くない。
なにかを話せなくても、不安にならない。
(言葉って……本当は、ただ“そこにいる”ってことを伝えるためのものだったのかもしれないな)
言えないけれど、わかる。
言葉じゃなくても、ちゃんと、届くものがある。
日が傾き始めると、エルネストはそっと立ち上がった。
「じゃあ、また明日。……天気が崩れなければ、な」
ルオは立ち上がらなかった。
ただ、エルネストの背を見送りながら、その場に座り続けた。
それが、“ここで待ってるよ”という彼なりの返事だった。
ルオはもう、孤独ではなかった。
言葉を失った獣としての日々の中に、今は確かに、誰かと過ごす時間がある。
それだけで、世界はこんなにも柔らかくなるのだと、
かつての人間だった彼は、今世の獣の身体でようやく知ることができた。