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その日もまた、昼が過ぎるころにエルネストの足音が森に差した。
ルオは岩陰に身を伏せ、いつものように耳だけをそっと向けていた。
足音、草をかきわける音、微かに息をつく声。
もうすっかり聞き慣れた音たちだった。
「今日も、同じパンだ。飽きてきたか?」
エルネストの声が、いつも通り届いてくる。
(……いや、同じでもいい。味より、ここに来てくれることのほうが、うれしいんだ)
そんな言葉が心の中に浮かぶけれど、もちろんそれは伝えられない。
けれど――今日は、何かが少しだけ違った。
エルネストがいつもよりゆっくりと、腰を下ろす前に手を止め、周囲を見回しながら、ぽつりとつぶやいた。
「……今日は、風が強いな。森の匂いが変わる。おまえの匂いも、もう少しだけ強くなってきた」
ルオの体が、ぴくりと揺れた。
(……気づいてるんだ、僕の気配に)
ほんの数日前までは、風下で身を潜めていても、エルネストは「いるか?」と口にしていただけだった。
でも今は――ちゃんと、“そこにいる”と、言ってくれている。
エルネストは、やさしく笑って木の根元にパンを置いた。
するとそのとき、不意に、森の奥から乾いた風が吹いた。
ぱたん、と紙がめくれるように、エルネストの持っていた布袋の口が開き、中から乾燥した薬草の束がぽろりとこぼれ落ちた。
風に舞って、地面に散らばっていく。
エルネストはすぐにしゃがみこもうとしたが――脚を軽く引きずり、動きが遅かった。
それを見たルオの身体が、自然と――動いた。
三本の脚で、ぎこちなくも静かに地面を蹴って、岩陰から出る。
倒れないようにバランスを取りながら、よたよたと草の中を進んで、落ちた薬草のひとつを、そっと口にくわえた。
エルネストが、それに気づく。
目が合った。
ルオは、怯えながらも、逃げなかった。
(……これ、返す。落としたよ)
そう思いながら、エルネストのすぐそばには行かず、中間の位置まで歩き、そこに薬草をそっと置いた。
エルネストは――何も言わなかった。
ただ、目を見開いたあと、まるで呼吸を整えるように一度ゆっくりと息を吸って、それから――静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
その一言に、ルオの胸の奥が、不意に熱くなった。
なにも説明していないのに、なにも伝えていないのに、
まるで、ちゃんと届いたような気がした。
(ああ……通じるんだ)
誰かの言葉を、理解するだけでなく。
こちらからの想いも、ちゃんと伝えることができるんだ。
それは、言葉を失ってから初めて知った感情だった。
その日の帰り際、エルネストはいつもより少しゆっくり歩いてから、振り返って言った。
「……また、明日も来るよ。おまえがそこにいてくれるなら、それだけでいいから」
(……僕も、待ってるよ)
もちろん返事はなかったけれど――
その場に立ち続けるルオの姿が、何よりの答えになっていた。
それから、ルオはもう岩陰には戻らなかった。
昼になると、自分からエルネストの来る道を見晴らせる場所に移動し、待つようになった。
それは、言葉のない世界での、精いっぱいの「呼びかけ」だった。
そして、誰かとつながるということを、再び――少しずつ、信じ始めていた。