3
エルネストが現れるのは、決まって昼過ぎだった。
霧の薄くなった時間。陽光がわずかに木の隙間から差し込み、灰色の森に一瞬だけやさしい色が満ちる、その頃。
彼はいつも同じように、パンか、小さな果物か、温めた干し肉を持って現れた。
それらを、ルオの“縄張り”の外れに置いて、少し離れた倒木に腰を下ろす。
「今日のは、ちょっと焦げたかもな。……まあ、野生の舌には合うかもしれんが」
その声に、ルオは岩陰の奥でまぶたを伏せたまま耳を傾けていた。
言葉の一つひとつが、意味を持って届いてくる。
(焦げたって……味は、昨日のより柔らかい。きっとバターか何かを入れたんだ)
ルオは、人間の言葉が理解できた。
転生して最初に言葉を失ってからも、“意味”はずっと頭の中に生き続けていた。
でもそれを、伝えるすべはない。
喉から出るのは、濁った呼気か低い唸りだけ。
手も、表情も、もう人間だったころのようには使えない。
エルネストはそれを知らない。
ただ、自分の言葉を、森にいる獣へと届けるように話しかけていた。
数日が経った。
ルオはとうとう、エルネストの置いていく食べ物を彼の目の前で食べられるようになっていた。
最初は、彼が背を向けたときだけだった。
今では、視線を感じながらでも近づける。
エルネストは、それでも何も求めなかった。
「おまえの食べ方はな、なんかこう……丁寧だな。獣ってより、猫みたいなとこある」
(猫じゃないけど……まあ、乱暴には食べない方だと思う)
ふと、心の中で反応する自分に気づいて、ルオは驚いた。
ああ――
“会話”ができなくなっても、誰かの言葉が、こうやって心に引っかかっていくんだ。
やがて、ルオはエルネストが来る時間帯を待つようになっていた。
その足音を覚えた。
背の重みのかかる歩き方。少し引きずるような足音。
それが近づくたび、身体の奥で何かがざわめいた。
「……いるか?」
ある日、そんな問いが投げかけられたとき、ルオは胸の奥がきゅうと締めつけられるのを感じた。
(……いるよ。ここに)
だが声は出せない。
エルネストは返事を期待していなかった。
ただ、いつものように食べ物を置き、腰を下ろした。
「今日の葉はな、少し熱をとるんだ。……いや、わからんか。まあ、俺の独り言だ」
(わかる。たぶん、それは前に僕が嗅いだやつ……葉っぱを潰すと、スッとした匂いがして、苦いんだ)
ルオの中で、胸の奥がふわりと熱を帯びた。
彼は、僕を“ただの獣”として扱っていない。
いや、扱っていないからこそ、伝えようとしてくれている。
人間の世界でさえ、こうして言葉を尽くしてくれる人は少なかったのに――
その夜。
ルオは、久しぶりに夢を見た。
春の匂いのする風の中で、誰かに名を呼ばれた。
手を引かれて歩く感覚。
暖かい光と、草を踏む音。
だが、目が覚めたときには、片脚を失った獣の姿で岩に横たわっていた。
それでも、どこかに確かに残っていた温かさが、今の“現実”と地続きであることを、ルオははっきりと感じていた。
次の日、エルネストが来たとき。
ルオは、岩陰から一歩だけ、自分の意志で出ていた。
彼は振り返って、驚いたように目を細めたが――何も言わずに、腰を下ろした。
「……天気がいいな。今日は、陽がさしてる」
(うん。ちょっとあたたかい。木の根も、昨日より乾いてる)
言葉を返せない。
けれど心の中では、エルネストの言葉一つひとつに“返事”を返していた。
ルオの耳が、ぴくりと動いた。
それを見て、エルネストは小さく笑った。
「……今日は、いい日だな」
ルオは静かに目を細める。
それは――彼にとっての、初めての“対話”だった。