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何日も、何日も、ルオはひとりだった。
傷を負った右前脚は、すでに“無くなっていた”。
獣のように噛み切られた肉の断面は痛みこそ落ち着いたが、バランスの崩れた身体は思うように動かせず、狩りもままならない。
それでも死にはしなかった。
森の湿った空気が、彼の身体を冷やさぬよう守り、
根の間に溜まった雨水が、喉を潤してくれた。
だが、それ以上に、彼を生かしていたのは――怒りだった。
人に裏切られたこと。
信じたのに、報われなかったこと。
何も奪わなかったのに、奪われたこと。
「……もう、誰も信じない」
声には出せないけれど、心の中で何度もそう繰り返した。
言葉を話す喉がないからこそ、その決意は胸の奥深くに刻みつけられた。
動きの鈍くなった身体を引きずるように、ルオは森の奥の、より光の届かない小さな岩陰を“巣”にした。
他の獣たちが近づかない、苔に覆われた冷たい場所。
ここなら、誰も来ない。
誰にも出会わない。
出会わなければ、また信じることもない。
そうして、季節の移り変わりさえ感じられないほど、長い時間が過ぎた。
ある日。
森に、また“異物”の匂いが入り込んだ。
鉄の匂いではない。血の匂いでもない。
それは、火と、土と、木の皮と――パンの焼けた香ばしい匂い。
ルオの鼻がひく、と震えた。
本能が、腹の虫を目覚めさせる。
だが、動かない。もう騙されない。もう近づかない。
それでも、匂いは日に日に強くなっていった。
同じ方向から、同じ時間帯に。
それはつまり――誰かが、ここを“訪れている”ということだった。
三日目の昼下がり。
ルオが、腹を空かせて雨水を舐めに出たとき、
その匂いはすぐ近くに、残っていた。
警戒しながらも、鼻先で風を切るようにして確かめると、
すぐそこの倒木の陰に、丸いパンのようなものが置かれていた。
火を通した香りがする。
獣の勘が告げる――これは毒ではない。食べられる。
誰かが、ここにパンを「残していった」。
ルオはその場で動かず、しばらくじっと座っていた。
すると、視界の端。少し離れた木の根元に、何かが動いた。
人間の男だった。
だが、武器を構えていない。
鎧も着ていない。
髪は少し白く混じり、厚手の布を巻いた地味な服。手には、杖でも剣でもなく――杖のように使われた、ただの枝。
「……食べるかどうかは、おまえ次第だ。俺は、ここで見てるだけだ」
その声は低く、落ち着いていた。
意味はわからない。けれど、怒鳴るでも命令するでもなく、ただそこに“いる”だけの声だった。
ルオは、前脚のバランスを崩さないよう気をつけながら、パンに鼻を寄せた。
匂いは、やさしかった。
ほんの少しだけ口にくわえてみる。
それでも、罠ではなかった。
もう一口。
さらにもう一口。
すべてを食べ終える頃には、男はまだそこにいた。
けれど、なにもしてこなかった。
「……そうか。食べてくれるか」
男は、そう言って静かに立ち上がった。
ルオは目を細めた。
いつ襲いかかってくるのかと、喉の奥で息を殺したまま。
だが、男は近づかなかった。
むしろ、ひとつ深く息を吐いて、ぽつりと独り言のように言った。
「俺は“エルネスト”。べつに、名乗る必要もないか。……じゃあな」
そして、森の奥へ、ゆっくりと去っていった。
ルオはしばらくその場に佇んでいた。
パンの味が、口の奥に残っている。
あれは――なんだったのだろう?
ただの、偶然?
それとも……期待してはいけない“はじまり”?
彼はまだ、信じていなかった。
それでも、心のどこかに、小さな“ひかり”が残ったのを、否応なく感じていた。