12
朝、森には白い霧がゆっくりと漂っていた。
木の枝に残った雨粒が、ぽたり、ぽたりと地面に落ちて、
そのたびに、まるで森が静かに呼吸しているように感じられた。
エルネストの調子は戻っていた。
いつものように焚き火をくべ、火がはぜるそばで、エルネストがぽつりとつぶやく。
「少し……歩いてみようか。気分転換に」
とくに理由はなかった。
でも、空気が澄んでいたからかもしれない。
もしくは、ただの気分転換かも。
ルオは焚き火のぬくもりから顔を上げ、
すこし考えるように目を細めたあと、そっと立ち上がった。
三本の脚で、ゆっくりと。
森は雨上がりの匂いに満ちていた。
湿った土の感触と、風に混じる草の香り。
水滴をはじく葉の音。
遠くから鳥の声がかすかに届いてくる。
ぬかるんだ地面を歩くエルネストの背中を、ルオは少し離れた場所から見つめていた。
言葉はなかった。
でも、沈黙は心地よかった。
誰かと一緒に歩く静けさは、ひとりでいるときの静けさとは、まったく違っていた。
目的もなくふらふらと森の中をゆっくりと歩く。
やがて、視界が開けた。
霧がすこしだけ薄くなり、
ひときわ強く、木漏れ日が差している場所があらわれた。
その瞬間、ルオの足がぴたりと止まる。
(……どうして)
身体の奥が、急に冷えたような気がした。
見覚えがある。
足が、勝手に一歩、後ずさる。
避けたはずだった。
もう近づかないって、決めた場所。
けれど、知らないうちに、そこへたどり着いてしまっていた。
喜んで欲しくて、案内した。
草を見せたとき、笑ってほしいと思っていた。
笑顔で別れられるって、思っていた。
でも、違った。
酷く身勝手な声だった。
剣はふりおろされ、
空気が切れる音と一緒に、激痛と前脚の感覚が消えた。
どうして、と思った。
なにを間違えたのか、わからなかった。
ルオの前世は平和な場所で、
人はやさしい存在だった。
だから、同じだと心から信じていた。
なのに、その信じた気持ちごと――
失った。
「……ルオ?」
エルネストの声が背後から落ちてきた。
「……」
ルオは返事をしない。
けれど、肩のあたりがかすかに震えていた。
じっと地面を見つめ、前に出かけていた脚を、そっと引く。
もう草はない。
匂いも、血の跡も消えている。
でも、身体は覚えていた。
あの日の空気。
足に食い込んだ鈍い金属の痛み。
信じた心が、切り裂かれた時間。
エルネストは、そっとルオの横に立った。
それ以上、なにも言わなかった。
ただ、隣にいるだけだった。
沈黙が森に降りた。
風が草を撫でる音。
木々が遠くで揺れる気配。
それだけが、ふたりのあいだに流れていた。
ルオは、ただじっと立っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
この場から逃げたい気持ちはあった。
でもエルネストが何も言わずにそばでルオを見ていた。
何かを望んでいる目ではなく、ただルオを心配するように労っていた。
だんだんと逃げたくない気持ちがルオの中に溢れてきた。
自分のあの行動は、まちがいなんかじゃなかった。
信じたかった。
誰かの役に立ちたかった。
喜ばせたかった。
裏切られたけれど――
あのときの自分がとった行動は間違いじゃなかったんだ。
だから、あのときの自分を、今の自分がなかったことにしたくなかった。
ルオは、ゆっくりと前へ出た。
脚が震えた。
けれど、転ばなかった。
風が静かに背を押していた。
草の香りも、血の匂いも、もうない。
ただの土のにおい。
風の音。
光のきらめき。
それを、ルオはゆっくりと鼻先で確かめて、
そっと、頭を下げた。
地面に触れる寸前で、静かに止める。
それは――
今の自分から過去の自分への、メッセージだった。
エルネストは、なにも言わなかった。
でも、そばにいた。
変わらずに、ただ隣に立ってルオをみていた。
言葉ではない静けさが、胸の奥にふわりと広がっていく。
帰り道。
森の景色は同じだった。
けれど、風がやわらかくなった気がした。
空の色がすこし明るくなって、
木々の影が、前よりやさしく見えた。
過去は変えられない。
でも、いまこうしている“今”があるなら――
焚き火のそばに戻ったあと、
ルオは少しだけ、エルネストに身体を寄せた。
火のあたたかさより、
人のぬくもりに、すこしだけ近づいて。
エルネストは何も言わず、そっとルオの頭に手をのせた。
その仕草が、胸の奥にすっと沁みた。
あの場所は、もう怖いだけの場所じゃなくなった。
きっとこれからも、ときどき苦しくなるかもしれない。
でも――
今日は、その場所にちゃんと立って、前に進めた。
それだけで、じゅうぶんだった。