10
森に、雨の季節がやってきた。
葉の緑が濃くなり、風はぬるく、空の色は重たい。
森の小道には水たまりが増え、枝のしずくがぽたぽたと土を打つ。
ルオはその日も、エルネストの足元で静かに座っていた。
「今日はちょっと、体がきしむな……。雨のせいかもしれん」
エルネストは苦笑しながら、腰を軽く叩いた。
「薪を乾かすのも、少し大変になってきたな。……ああ、いけない、荷室の奥に置きっぱなしだ」
そう言って立ち上がり、よろけそうになるのを、すぐに片足で踏ん張って止めた。
その一瞬の動き――ルオは見逃さなかった。
(……痛んでる。村から戻ってから、ずっと無理してる)
かつてのルオなら、ただ見ているだけだっただろう。
何かをしても、伝わらない、と思っていたから。
けれど今は違う。
エルネストが、帰ってきてくれた。
待って、信じて、また会えた。
そして今、目の前にいる――大切な存在。
だからこそ、動きたいと思った。
エルネストが荷室の裏に回っているあいだ、ルオはそっと立ち上がった。
右前脚がないままの三本脚では、遠くまでは行けない。
でも、“届く範囲でできること”はある。
焚き火の周りの濡れた枝を、鼻で探し、くわえて乾いた場所へ運ぶ。
いつもエルネストがやっていた、薪の選別と移動。
ルオは、その姿を何度も見て覚えていた。
ただそれだけの動きでも、三本脚の体には負担が大きい。
ぐらりとバランスを崩し、肩から地面に倒れ込みそうになりながらも――
それでも、あきらめなかった。
(エルネストに、無理をさせたくない)
だから。
「……ルオ?」
エルネストが戻ってきたとき、ルオは最後の一本を鼻先で焚き火のそばに転がしていた。
彼の手に持たれた薪が、宙で止まる。
しばらく、何も言葉がなかった。
風が、濡れた葉を揺らす音だけが続いていた。
やがて、エルネストは深く息を吐き、ぽつりと言った。
「……助かった」
それは、どこまでも静かな声だった。
でも、間違いなく心からの感謝が込められていた。
ルオは、疲れきった身体を地面に沈める。
けれど、胸の奥はふわりと温かかった。
はじめて、“誰かのために動いた”こと。
そして、それがちゃんと伝わったこと。
それがどれほど嬉しいか、彼は今、はっきりと知っていた。
その夜。
雨がやみ、霧が森の隙間を漂っていた。
焚き火の周りはいつもよりも暖かく、
ルオはエルネストの肩掛け布の上で眠っていた。
目は閉じていたが、意識はゆるやかに漂っていた。
眠りの中で、なにかが、胸の奥で芽生えていた。
あれは“役に立ちたい”という気持ちだったのか。
それとも“守りたい”という気持ちだったのか。
どちらとも言えない。
ただ、間違いなく言えるのは――それはもう、ただの「生存」ではなかった。
生きることに、誰かの存在が加わると、
それは“暮らす”という名前に変わっていくのかもしれない。
焚き火がぱちん、とはぜた。
ルオは小さく頭を動かし、火を見た。
そしてその向こうにいるエルネストを見て、
そっと鼻を鳴らすように、小さく息を吐いた。
それは、たしかに伝えようとした合図。
「……ん? どうした、ルオ」
その声を聞けたことが、今夜いちばんのご褒美だった。