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風が、静かに梢を鳴らしている。
灰の森と呼ばれるこの地には、四季があるのかも分からないほど、常に同じような薄暗い空気が流れていた。だがルオは、その森が嫌いではなかった。
ここに転生してきたとき、彼はもうすでに“人間ではない”ということを理解していた。
鏡があるわけでもない。水面に映る姿や、地面を踏みしめる感触、動かせる手足の形――すべてが、以前のそれと異なっている。
獣の体。
言葉の出ない喉。
指の代わりに、柔らかい肉球のついた足先。
それでも不思議と、受け入れられた。
「そうか、僕はもう、人間じゃないんだな」
心の中でそう呟いたのは、まだ毛並みも薄く、身体が小さかったころ。
だが恐怖はなかった。
食べ物を見つける術も、隠れる場所も、森はすべて教えてくれた。風の流れ、地面のぬくもり、草の匂い――それらすべてが、彼の新しい“感覚”を刺激した。
そして何より、孤独ではあったが、この森の静けさは優しかった。
そんなある日、森に見慣れぬ匂いが流れ込んできた。
鉄の匂い。火薬の匂い。人間の匂い。
獣としての感覚が告げる「異物」だったが、ルオの心はそれに反応した。
彼らが探し求めている“目的”に、心当たりがあったからだ。
(きっと、あれを探してるんだろう。だったら……案内してあげよう)
草陰に身を潜めながら、そっと姿を現したルオを見て、人間たちは最初こそ武器を構えた。
だが、ルオが牙をむかず、鳴き声も上げず、ただゆっくりと尻尾を垂らして見つめ返したことで、その中の一人が言った。
「……おい、待て。こいつ、なんか違くねえか?」
「……敵意は、ない……か?」
彼らの警戒心が一瞬、緩んだ。
ルオは小さく一歩、後ずさるようにしてから、草の中へと身をひそめる。
人間たちがそれを追ってくるように、気配で確かめる。
(そう、それでいい。着いてきて。教えてあげたいんだ)
森の中のとある場所――光が差し込み、数本の透明な茎が朝露を宿して輝いていた。
《昼夜草》。
この地でしか見つからない、時間帯ごとに姿を変える希少な薬草。
ルオは、その根元に静かに座り込み、見つけたよ、とでも言うようにしっぽを揺らした。
人間たちがその様子を見て、最初に言った一言は、
「おお、間違いねえ、これだ!」
歓声だった。
ルオの胸に、ほのかな喜びが湧いた。
(よかった、役に立てた)
――その瞬間だった。
「で? こいつどうするよ?」
「これほど賢い獣、連れて帰ったら高く売れるんじゃね?」
「魔導士に売って研究材料だな」
冗談交じりの会話。
けれど、その中にある“本音”は、ルオの耳にも届いていた。
(……?)
そして、背中に強烈な衝撃が走った。
「ギィアッ!!」
振り向いたとき、剣が振り抜かれていた。逃げようと跳ねたその瞬間、もう片方の男が誤って振った刃が深く前脚を裂いた。
右前脚が、動かない。
熱い、血の匂いが溢れる。
「ちっ、深く入っちまったか……! おい、殺すなよ、死んだら意味ねえぞ!」
「くそっ、暴れんな!」
鈍い痛みと焦げた草の匂いの中で、ルオは反射的に跳ね、這い、地面を削りながら逃げ出した。
痛い。痛い。脚がもう、使えない。
でも、生きなければ。
もう一度、彼らの目に映るのが怖くて――
森の奥の暗がりへ、どうにか潜り込んだルオは、泥の中で身体を伏せた。
何度も、吐くような息をして、それでも声にはならなかった。
たすけて、あげたのに――
笑って、ほしかっただけなのに――
涙ではない、熱い何かが目の奥を焼いていた。
それが裏切りという言葉なのだと、知った。
それが人間というものなのだと、思い知った。
そして、ルオは決めた。
もう、人を信じるのはやめよう。
静かに、深く、森の奥に身を隠して。
誰にも見つからない場所で――獣として、生きていく。
そう、心に深く誓った。