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拝みの家  作者: われさら
9/10

09. 拝みの家

 「姉ちゃん、ごめん」


 拝みの家へと向かい走る車の中で、祐介はポツリと零した。


「俺があいつらから話を受けなければ、こんなことにはならなかったんだよな」


「……そうだね」


「そこは否定してくれるところじゃないのかよ」


 虚勢を張り、祐介は乾いた笑いを無理矢理零した。


「だって事実だし」


「……そうだね」


 佳苗は次々と後方へ流れていく高速道路の単調な景色を眺めているふりをしている。


「だから、全部終わったら、あんたの奢りでわたしに美味しいものを食べさせなさい。それしてくたら、全部チャラにしてあげる」


「ああ、わかった……ありがとう」


 それきり二人は言葉を交わさず、車はただひたすら、拝みの家を目指しひた走った。


──────────


 高速を下りてからしばらくすると、国道を走る車もまばらになった。暗闇の中、後方へ流れ行った景色はやがて見えなくなり、ヘッドライトに照らされた海岸沿いの道路は彼らの急く気持ちを焦らすかの如く唐突にカーブを迎える。


 事故を起こさない程度に速度を緩めて走り続け、再び拝みの家へと向かう細道に入った時、時刻はすでに深夜だった。サイドミラーに伸び切ったススキの葉が当たるのも構わず、車は揺れながら闇夜を行く。


 家のそばまで来たところで、ヘッドライトが照らす先に、停まっている一台の車が現れた。


「あいつらの……か?」


 一昨日彼らが乗っていた車とは車種が違うものの、「わ」ナンバーのプレートはそれがレンタカーであることを示していた。その車は駐車場に停められておらず、方向転換もせずに家の前で横付けされている。そのため、祐介たちの車もハンドルを切り返すことができずそのまま、後ろにつけるようにして停まった。


「家の中にいるのかも」


「俺たちも早く行こう」


 祐介は車から降りると、トランクから先日使った懐中電灯を二つ探り出し、それを点けるとゴルフバッグを取り出した。数本のクラブが入っているその中から一本抜き、懐中電灯と共に姉にわたす。


「林くーん!!」


 自身もクラブを一本取り出しながら、拝みの家に向かって祐介は大声で叫んだ。しかしその呼びかけに応じる声はなく、周囲はシンとしている。家の中でライト等の明かりが揺れている気配すらなかった。


「……とにかく家へ入ろう」


 祐介が先導し、二人は林たちが乗ってきたと思われる車の中を照らしながら進んだ。車の中は誰も乗っておらず、彼らの物らしき手荷物が座席に投げ出され置いてある。


「家の中で……」


 「お参りをしているのかな」と唐突に頭の中に浮かんできた言葉を飲み下して、祐介は懐中電灯を玄関に向けた。引き戸は開け放されており、ぽっかりと開いた口が光のもとに晒される。


「きゃっ……」

「うわ……」


 照らされた三和土の上には、きれいに揃えられた二足の靴があった。行儀よく、つま先をこちらに向け丁寧に並べられているそれらは祐介にとって見覚えのあるもので、間違いなく林と新堂、二人の履物だった。


 姉に確認するように、自分に言い聞かせるように、祐介は「壊そう」と二三度呟き玄関へ足を向けた。


「──林くん? 新堂さん?」


 玄関口、恐る恐る家の中を覗き込んで祐介は様子を伺った。靴が並んでいる以外は、一昨日から様子は変わっていないように見える。家の中は外よりも静かで、呼びかけに応じるような人の気配は一切しない。


 祐介の隣にやってきた佳苗は、懐中電灯の明かりを祐介のものに重ねながら明るいところだけを見ていた。


 もしも万が一、自分の照らした明かりがそういうもの(・・・・・・)を捉えでもしたら──そんなことを考えると、とても家の奥へ明かりを向ける気になれなかった。


 気を抜くとブルブルと震えが止まらなくなりそうな腕でなんとか懐中電灯を握りしめている祐介もまた、姉と似たような気持ちでいた。寄り添うような二人の明かりは、おずおずと、ためらいがちに、他を照らさないようにして廊下の奥だけを目指していく。


「……誰も、いないね」


「うん……」


 長い時間をかけて進むべき前方に何もないことを確認すると、二人はゆっくりと、きしむ廊下を足を擦るようにして進んだ。右手の和室に何かがちらついた気がしてもそれは気の所為だと佳苗は自分に言い聞かせて、正面だけを見据えて廊下の奥まで歩き続けた。


 林と新堂に呼びかけつつゆっくりと時間をかけて一番奥の仏間の前までたどり着いた二人は、閉め切られた襖を見て顔を見合わせた。一昨日、来た時も帰る時も開け放してあったはずの襖は今、茶色に変色した物言わぬ壁のように塞がっている。


 棺に蓋をするが如く閉ざされている襖。ここを開けるのは躊躇(ためら)われた。襖の引き手に触れることすら、忌んだ。


「林くん? 新堂さん?」


 祐介は襖の向こうへ聞こえるように声を張ろうとしたが、出てきたのは震えて掠れた、情けない声だった。何度かそんな調子で襖の前で仏間に向け二人の名を呼び声をかけてみても、向こうから返事はない。


 二人は観念したように無言で顔を見合わせた。


「開けるよ」


 姉が微かに頷くのを横目に、祐介は震えるその手を襖の引き手に当てた。まるで同時に向こう側からも力をかけられたかのように、それは僅かな力で難なく開き、襖を開けた祐介自身、ぎょっとしてすぐに手を離した。


「はぁ……はぁっ……!」


 部屋の中、懐中電灯に照らされる人影はなく、閉め切られていた仏間には相変わらず仏壇が重々しく存在するだけだった。一昨日開け放っていた隣の和室と繋ぐ襖も縁側との障子戸も、今はきれいに閉じられている。外界と断絶しているその部屋は、廊下よりも一層暗闇が深く感じられた。懐中電灯の明かりが怖気づき、光が弱まったような気さえする。


「こんなものがあるから……!」


 祐介は大股で仏壇の前へ向かうと、ゴルフクラブを両手で握りしめ高く掲げた。力を込めて叩きつけようとして──


「先輩」


 突如、林の穏やかな声が隣の和室から聞こえてきた。


 慌てて二人は懐中電灯を向けるが、襖は変わらずぴったりと閉まっている。変色した途切れ途切れの紋様があるばかりで、林の姿はない。


「岡先輩」


 内部の骨が一部剥き出しの襖の向こうから再び林の声がして、思わず祐介は返事をした。


「な、なに」


「先輩。嘘だったんですね。実家が神社関係だとか、お姉さんが霊感あるだとか」


 林は祐介を糾弾していた。しかし彼の声は極めて穏やかなもので、夕刻電話した時の苛立ちが嘘のように凪いでいる。


「それは……ごめん」


「わたしも謝る。林くん、騙してごめんなさい」


「嘘に嘘を塗り固めたそのせいで、ぼくら、こんなになってしまいましたよ」


「悪かった……でも、俺はきみたちの手助けになればと思って……」


「へぇぇぇ……手助け。ははは……じゃあ先輩、ちょっとこっち来てもらえますか」


「あ、ああ……」


 ふらふらと行きかけた祐介の腕を強く掴むと、佳苗は震えながら首を左右に振った。それを襖越しに覗いてでもいるかのように、林は呆れたようにため息をつき言葉を重ねる。


「はぁ……先輩。ぼくらの手助けをしたい、というのも嘘でしょう。本当は、自分の仕事のネタの一つにでもなればと、そう思っていたんじゃないんですか? ぼくらが真剣に苦しんで悩んでいたのに、先輩、あなたはそれを面白いネタが入ったとしか考えていなかった。違いますか?」


 林の言葉に図星を突かれて、祐介はその場で凍りついた。顔を歪め、絞り出すように声を発しそれを否定する。


「違う……俺は……いや……そういう気持ちがなかったとは言わない……でも、きみたちを助けたいという気持ちも本当で……」


 苦悶し苦渋の表情をして答える祐介を庇うように佳苗は声を張り上げた。


「林くん! あなた、新堂さんはどうしたの?」


「美咲ですか。呼んであげれば返事をするんじゃないんですかねぇ……」


 林のべっとりとした言い方に怯え、二人はしばし微動だにせず黙っていた。それきり林も黙ったため、部屋の中は沈黙に包まれる。家鳴りのような、微かに軋む音がする暗闇は、動かずにいるとまるで懐中電灯の明かりを呑み込んでしまうほどで、このままでいると幽明さえも失ってしまうかのように二人は感じた。


 墨がどっぷりと溢れかえったような冥闇。そこで二人はただ静かに喘いでいた。


 その重苦しさに堪えきれなくなった佳苗が、「……新堂さん?」とポツリと呟く。


 しかし、佳苗の呼びかけに応じる新堂の声は、なかった。


「──ああ、もう駄目みたいですよ」


 林のその声がやけにはっきりと上の方から聞こえた気がして、咄嗟に二人は懐中電灯の明かりを襖の上の欄間へと向けていた。


 欄間の木彫りの隙間から、二つの目玉が彼らを凝視していた。血走ったその目玉は明かりを向けられても微動だにせず、ただじっとりと明かりを持つ二人を見据えている。


「うわぁぁっ!!」

「きゃああああ!!」


 悲鳴を上げた二人はその眼球に視線を絡め取られたかのように、そこから視線を外せないままその場に尻もちをついた。身長が二メートル以上なければ届かないような位置から、林の声が聞こえる。


「どうしたんですか先輩。早くこっちに来てくださいよ」


「そそそそっちって何、何をするんだ」


「決まっているじゃないですか。一緒に謝るんですよ。彼女に」


「彼女……い……いるのか」


「いいえぇ……でも絶対、見てくれるはずですから」


 祐介は引き留めようとする姉の手をそっと払うと、「大丈夫だから」とゆっくり頷いてみせた。


「じゃ、じゃあ開けるぞ」


 祐介は引き手に触れると、襖を両手で一気に開けた。


「あ、あ……」


 彼の眼の前には、吊るされた二つの肉体があった。


「いやああああっ!!」


 赤いロープで首を括り、剥き出しになった梁からぶら下がっている、林と新堂の遺体がそこにはあった。


「林くん! 新堂さん!」


 物言わぬ死体は何も語ることなく、きしむ梁だけが静かに鳴っている。ただ懐中電灯に照らされたその顔だけは、到底その死に納得いかないかのように歪み、苦悶し、無念そうに硬直していた。舌が尋常でないほど飛び出し変色している。二人のいる仏間の方を向いている目玉も零れ落ちそうなほど眼窩からはみ出しており、彼らがもうこの世に存在しないことを祐介と佳苗が悟るには充分なほど、そこに生気は一毫も漂っていなかった。


「祐介っ! 早く!! 早く壊そうっ!!」


「うぁぁ!!」


 二人は叫びながらゴルフクラブを高く掲げると、仏壇のそばまで走り力任せに叩きつけた。隠れ潜んでいたゴキブリが数匹逃げ惑い、足元に転がった懐中電灯を横切る。それに構わず、二人は夢中でゴルフクラブを振った。


「ああああ!!」


 長い間蓄積していたであろう埃が暗闇にもうもうと舞う中、二人はひたすら、仏壇を叩き壊していた。


「壊れろっ!壊れろぉぉぉっ!」


 物言わぬ(しかばね)となった林たちが見つめる中、仏壇が粉々になっても姉弟はそれを殴り続け、終いには畳の一部が音を立て抜けた。そこでようやく、二人はゴルフクラブを握る手を緩めることができた。


「はぁっ……はぁっ……」


「これだけやれば、充分、でしょ……」


「ああ……」


 それでも二人は、背後を振り返り林と新堂の遺体に向かい合う勇気だけはなかった。


「……ここで二人が亡くなっていることを警察に連絡しないと」


「ああ……ああそうだな。じゃ、じゃあ、外で」


「うんそうだね。……ここ、埃がすごいし」


 二人は視界の端にある二つの胴体をできるだけ見ないようにしつつ、仏間から出ると廊下を進んだ。


 洗面所のあたりまで戻ってきたところで、二人はぎょっとして足を止めた。それまで家の中は全く静かだったにも関わらず、二階からドタドタという人の足音がしている。


「な、何!?」


 祐介は姉の手を掴み、自身の背後に回るように誘導すると、ゴルフクラブ構えてジリジリと階段のそばまで向かった。階段の角から恐る恐る懐中電灯を上に向ける。すると階段がカーブしているあたりから、ちょうど二人と同じ様にこちらを覗き見下ろしている二つの顔があった。


「田川くん、小関さん……」


 愕然とする姉弟と目が合うと、二人はぬっと首を突き出して一階に向かって駆け下りてきた。


「キャキャキャキャキャキャキャキャキャ!!」


 喪服を着た田川と小関は奇声を上げ、転がり落ちるように階段をやってくる。慄然として脇に飛び退いた姉弟を無視して二人は玄関から外へ飛び出し、玄関の引き戸を勢いよくピシャリと閉めた。


 一瞬呆然とした姉弟だったが、我を取り戻すと慌てて玄関へ向かい、閉められた引き戸を懐中電灯で照らした。磨りガラスの部分に彼らの影が映りその場でじっと佇んでいる様子が浮かび上がる。


 彼らに呼びかけようとしたすんでのところで、二人の脳裏に全く同じ考えが浮かんだ。


 ──ああこれ、両手を合わせて拝まれている……


「うわぁぁぁっ!!」


 姉弟は同時に悲鳴を上げ、その場に尻餅をつき倒れた。その次の瞬間。


 リィーン──


 破壊尽くした仏壇の脇に置かれていた錆だらけのおりんが、きれいに打ち鳴らされた。


「いやあああっ!!」

「なんなんだよここっ!!」


 罵声を発し、祐介は懐中電灯を投げ捨てるとゴルフクラブを両手に握りしめ立ち上がり、奥の仏間へと向かおうとした。床に転がった懐中電灯の明かりが、何も無い廊下の奥を丸く照らす。


「まっ、待って!!」


 その場にへたり込んでいた佳苗はすかさず祐介の脚にしがみついた。


「そっちに行っちゃ駄目っ!!」


「あああっ!?」


 混乱し、怒気に満ちた表情を祐介は姉に向けた。佳苗はそれでも懸命に彼をこの場に留めようと、実弟の脚をぎゅっと抱きしめた。


「わかんないけど、わかんないけど!! そっち(・・・)は駄目!!」


「じゃあ、どうしろって──」


 祐介がまくしたてようとしたところで、和室から二つのモノが畳の上に落ちる鈍い音がした。二人は息を呑み、ただその場で金縛りにあったように硬直している。懐中電灯を玄関と和室、どちらに向ければいいのかわからないでいる佳苗の額を、汗がじっとりと流れた。二人の喘ぐような呼吸だけがやけに大きく聞こえる中、やがて、仏間の方から畳を軋ませて何者かの歩く気配がした。


 仏間から聞こえてきたそれは、和室を通って二人へ近づこうとしている。


 古ぼけた、腐りかけの畳を軋ませて。擦るように歩き。


 真夜中、明かりも持たずに。


 咳き込むような、引きつったような、えづくような呻き声と共に。


 夜の闇よりも暗く黒い影が、ゆっくりと、少しずつ、廊下へ侵入しようとしていた。


「二階!!」


 それ(・・)の頭の先が祐介の放り投げた懐中電灯の照らす輪の端に現れた瞬間、佳苗は叫んでいた。瞬時に立ち上がると、祐介の腕を掴み階段に向かう。


「祐介!! 早く!!」


「でも、姉ちゃん……」


「わたしたちは仏壇を壊しに来たんだよ!? アレと向かい合うために来たんじゃないでしょ!!」


 混乱している佳苗自身、よくわからない理屈だった。だが、あの黒い女に対峙してはいけないことだけは、頭で考えずとも直感で理解している。


「逃げるの!! それしかないでしょ!?」


 祐介は幼い子供のように何度もガクガクと頷くと、姉に手を引かれるまま階段に足をかけた。先程、田川と小関が踏み鳴らして駆け下りてきたとは思えないほどその段板はボロボロで、慎重に足を運ばなければ確実に踏み抜いてしまいそうな程、脆かった。


「急いで!!」


「わかってる、わかってるって!!」


 佳苗が先に上り、その後ろで祐介が「早く、早く」と急かしている。


 ピン、ポーーーン──


 とっくに切られているはずの家のチャイムが、鳴らされた。それは在りし日のように軽やかで、長く、長く尾を引いている。


「おじゃましまーす」


 田川と新堂が声を揃えて、まるで友人の家へ遊びに来たかの如く振るまい、家の中へ上がってくる。


「あ、あ、あ……」


 喉がカラカラに乾ききっている祐介がこの世の終わりのような声を発した。慌てて佳苗は背後を振り返る。


 階段の下に女が俯き佇んでいた。その背後を、田川と小関が幸せそうに手を繋いで歩いている。


「祐介!!」


 それを見た祐介は腰が抜けて階段にへたり込んでおり、階段下の女を凝視したまま動けなくなっていた。


「祐介!! しっかりしなさい!! 早く!! こっち!!」


 ガタガタと震える祐介の顔からは信じられないほどの脂汗が流れ出ている。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 念仏のように、祐介は謝罪の言葉を繰り返している。しかし、その言葉を聞き入れられる者はもう、姉しかいない。


 突如、仏間の方から大学生四人の声がして、再びおりんが鳴らされた。線香を焚く臭いも広がり姉弟の鼻先まで漂う。


「先輩まだかなあ」


「お姉さんも」


「座布団、用意したのに」


「待っているのに、ねえ」


 アハハハハハハハハハハハハと、四人は一斉に笑い声を上げている。いや、四人だけではなかった。何人もの人間が哄笑し、歓談している気配が階下から一斉に湧きだした。


「なぁにもおもてなしできませんでねぇ」


 台所から老婆の声がしたかと思うと、傲慢そうな男の声が和室から怒鳴る。


「おい! まだかぁ!」


 縁側では子供の遊びはしゃぐ声がし、無邪気に笑い合っている。何も無かったはずのリビングではブラウン管のテレビが点けられる鈍い音がし、割れた大音量で『おぶつだんのおぶつだんのおぶつだんの』という音声が繰り返し流れている。


「ほら、あなたたちもこっちに来て手伝ってよ」


「おかぁさーーーーん」


「こんな所に隠れて」


「今度、店長も呼ぼうよ」


「はよ酒持って来ぉい!」


「はいはいはいはい」


「みぃんな死んじゃったなぁ」


 一際大きく仏間から笑い声が上がったかと思うと、お題目を上げる田川の声がした。


「南無妙法蓮華経」


 すると、今までのざわめきが一体となって、低く、呻くように唱えだした。


「南無妙法蓮華経」


 何十人もの声で一斉に重低音で唱えられるそれは、息継ぎなど知らぬように何度も何度も途切れることなく繰り返される。


「南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経……」


 祐介は泣きながら奇声を発すると、震える膝で立ち上がり手を伸ばしていた姉に掴まった。


「ちくしょう! ちくしょう!」


 階段を上った先には、洋室が二つあった。


「部屋の窓から外に出よう」


 暗闇の中、どれだけ安全に脱出できるか佳苗自身わからなかったが、それでも彼女にはそれしかないように思われた。


 「南無妙法蓮華経」と唱える声が階下から聞こえ続ける中、二人は駐車場に近い方の部屋へ飛び込み、窓へと駆け寄ろうとした。


 その部屋も一階の部屋同様、家具調度は何もなかった。窓にはカーテンもかかっておらず、闇夜がくすんだガラスの向こうに広がっている。だがしかしそこには、部屋の端の腐れかけの床の上に、学生が使うようなノートが一冊だけ、ぽつんと置いてあった。


 その表紙にはうっすらと、『柊笞 綾子』と書いてある。


 それが視界に入った瞬間、佳苗は叫んでいた。


「それ!! 壊してぇぇぇ!!」


 直感。頭で考えるよりも先に言葉が口を突いて出ていた。叫びながら佳苗はノートに飛びつくと、のたくった字で書かれている内容を見もせず、鳥の羽根を乱暴に毟るように破りだした。


「南無妙法蓮華経」


 姉の突然の挙動に戸惑っていた祐介だったが、やがて姉を手伝うように、彼女が破ったページを更に細かく手で千切り続けた。うねり曲がった虫のような字が次々と細断されていく。


「南無妙法蓮華経」


 気がつくと、女が部屋の入り口に立っており相変わらず気色の悪い声で笑っていた。それでも二人は構わずノートを破壊し続け、破るべきページがなくなると千切った紙くずをゴルフクラブで叩き、足で踏み(にじ)り続けていた。


「南無妙法蓮華経」


 重苦しく繰り返される題目に家の中が左右に揺さぶられるような感覚に陥る中、姉弟二人はただひたすら、廃墟の片隅に放置されていたノートを憎しみを持って損壊した。


「南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経……」


──────────


 「はぁっ……はぁっ……!」


「祐介……」


 気がつくと部屋の入口に女の姿はなく、空が白みだしている。


「え……もう、朝……?」


「多分……」


 家の中はとうに静まり返って朝を迎えており、シンシンとしている。光がぼんやりと射し込んでいる。朝の静謐な空気が、隙間風となって家の中へと舞い込んでくる。


 二人は静かな家の中を恐る恐る一段ずつ、階段を降りた。


 階段から廊下へ首を突き出して様子を窺っても、特に異常は見当たらなかった。祐介が投げ捨てた懐中電灯を拾い上げると、二人は足音を殺して廊下を歩き和室をそっと覗き込んだ。


「うわっ……」


 相変わらず、林と新堂の死体はこちらに背を向け和室に吊るしてあるままだった。しかし、奥の仏間の襖はいつの間にか閉じられている。そちらを確認するような気にはなれず、二人はそそくさと家の外へと出た。


 玄関から出てきた二人を早朝の空気が迎えた。人の活動にまだ汚されていない大気は新鮮で、昇りゆく陽が放射する光は直視せずとも眩しいほどに明るい。穏やかに吹く風がさわさわと木々の葉を柔らかに揺らしている。


 祐介は深呼吸をすると一一〇番をし、大学生二人が廃墟で首を吊っている旨を通報した。

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