07. 異変
「はぁっ……はぁ……」
佳苗が目を覚ますと、車はすでに彼女の住む街まで来ていた。
「あ、姉ちゃん起きた? もうすぐ着くよ」
「う、うん……」
車内は充分にエアコンが効いているにも関わらず、佳苗はびっしょりと寝汗をかいていた。起きた瞬間に夢の内容は忘却の霧の中へ溶け込みその輪郭を消失していたが、不吉な夢を見たことだけは、ざらりとした感覚と共に残っている。
「祐介」
佳苗が真面目なトーンで呼びかけると、弟は「ん?」と声だけ注意を佳苗に向けた。
「わたし、何かうなされてなかった?」
「いや? 普通にぐっすり眠っている感じだったけど」
「そう……いや、汗すごいかいてるから」
「普段とは全然違うことをしたから、疲れたんじゃないの?」
佳苗は生返事をしつつ、ミラーから後続車を見やった。既に大学生たちの車両は無い。
「田川くんたちは?」
「ああ。県内に戻るまでは後ろの方にいたみたいだけど。多分ファミレスかどこかに寄ったんじゃないかな」
「俺たちもどこかで飯食べてから帰る?」と祐介は提案をしたが佳苗はそれを断った。眠りに落ちる間際、大学生たちの車に見知らぬ女が乗っているのが見えたのは幻覚だと思うことにした。もし、本当に乗っていたのであれば、走行中に大騒ぎになっていただろう。疲れた自分の脳が見せた幻影だとすることが、佳苗は合理的に思えた。
「どうかした? 姉ちゃん」
「ううん、なんでもない」
やがて祐介は車の速度を緩めるとマンションのそばの歩道に横付けした。
「じゃあ姉ちゃん。本当に今日はありがとうね。やっぱ持つべきものは姉貴だなあって実感したよ」
「はいはい。送ってくれてありがとうね」
「俺の方こそ。俺からのお礼はいずれまた」
「ま、期待せずに待つわ」
手を振って弟の運転する車を見送ると、佳苗は1LDKの自室へ戻った。時刻はまだ宵の口だったがカーテンを閉め切った部屋は暗く、明かりをつけると目が眩み佳苗は目を細めた。
「あー……」
家に着いた瞬間、現実に帰ってきたようでドッと疲れが溢れてきた。手荷物をドサドサとその場に落とすと佳苗は脱力する。つい数時間前に廃墟で巫女装束を着ていたなんて、彼女自身嘘みたいに思えた。車の中で眠っていたにも関わらず、猛烈な睡魔が襲ってきている。佳苗はずるずるとゾンビのように歩を進め寝室に入ると、そのままベッドに倒れ込み泥のように眠った。
──────────
翌日の日曜日。
佳苗が目を覚まし時刻を確認するとすでに正午になろうとしていた。墓場のような寝室から這い出ると陽光が眩しく部屋に射し込んでいる。半日近く食していない彼女の腹が、ぐぅと鳴いた。
シャワーを浴びルームウェアに着替えると、佳苗はパスタを一束茹で、出来合いのソースをかけた。レタスとミニトマトを小鉢に盛り共に食べたがまだ微妙に腹は満たされない。しかし冷蔵庫の中に備蓄はほとんどなく、自分に「もう何も無い」と言い聞かせるように再度冷蔵庫の扉を開けて覗く。
先日祐介の食生活を注意した佳苗だったが、彼女自身もこの始末。
あまり偉そうなことを言うものじゃないな、扉を閉めつつ佳苗は自分自身にため息をついた。昨日の疲れが残っているのか、まだ少し体がだるい。
──夕方買い物に行こうっと。
そうと決めると佳苗は携帯電話を片手に居間のソファで仰向けになり、話題のTVドラマのネット配信を見ようとアプリケーションを開いた。番組を選択し動画の再生ボタンをタップする。しかし次の瞬間、佳苗はぎょっとして携帯電話から視線を外していた。
一瞬、彼女の視界の隅で何かがちらついた。
ソファの上に身を起こし、佳苗は部屋の中をぐるりと見回す。部屋の中には彼女しかいない。物は荒らされたり動かされたりもしていない。ベランダは──と視線を向けたことで、ようやく佳苗はカーテンが完全に開いていることに気がついた。
昨日、あの家へ行くときにカーテンを閉めて出て、それ以降佳苗はカーテンに触れてなどいない。したがってカーテンは閉じられてなければいけないのだが、白のレースとともにカーテンは大きく開いている。慌てて窓のそばに駆け寄り鍵を確認すると鍵自体はかかっていた。
──もしかしたら起きた時に無意識で開けたのかな……
『フフフッ』
不意に背後から女の笑い声が聞こえてきて、佳苗は反射的に窓に背を向け振り返ると同時にその場で尻もちをついた。そして次の瞬間、
『アーハッハッハッハッ!』
携帯電話で見ようとしたTVドラマの音声だった。コメディ調のドラマの中で、ピエロな悪役を演じる女優が馬鹿みたいに高笑いを発している。
「な……なんだ……」
立ち上がろうとした佳苗だったが、背後から視線を感じ尻もちをついたまま窓の外を見た。
窓の上辺から、逆さまになって鼻から上、顔面半分を覗かせて部屋の中を覗いている何かがあった。その目は黒目の部分しかなく、どこを見ているのかすら定かではない。ただぼんやりと、佳苗を視界に捉えているようだった。長く黒い髪が窓の中央あたりまで垂れて風にはらはらと揺れている。
「きゃああっ!」
腰が抜けた佳苗は、両手足を使って這うように窓辺から離れた。
それでも佳苗は、数秒ほど目を見開きそれを凝視していた。何もかもを飲み込んでしまいそうなその黒い瞳からはどんな感情も見出だせない。すると突然、それはずるりと上から落ちてきた。羽根を毟り取られた大きな烏が首を伸ばして垂直に。黒い服を着た女が落下してきた刹那、佳苗はそんなイメージを捉えた。女の瞳は落下している瞬間も佳苗をその球面に映し、瞬きすらしていない。
悲鳴を上げた佳苗が思わず目を閉じたのと同時に、腐ったトマトを激しく踏みつけたような音がベランダからした。女がベランダに叩きつけられた瞬間は目撃せずにすんだものの、しかし、柔らかなものが激しく潰されたような音が、彼女の耳の奥にこびりつく。
恐る恐る彼女が再び目を開けた時には、窓の向こうに女などおらず、変わらない風景が広がっていた。携帯電話からは変わらず愉快なドラマの音声だけが聞こえている。
「えっ──」
立ち上がり、おっかなびっくり佳苗はベランダを眺めてみたが、人が落ちてきたような痕跡はどこにもない。「どういうこと」と呟いた途端、佳苗は背後から急に息遣いを感じ、身動きができないほど硬直していた。
部屋にうっすらと白いモヤのようなものが広がり線香の臭いが立ち込める。佳苗がなんとか動く眼球で足もとを見ると、穢れた裸足が佳苗のすぐ後ろにあった。
その足は血の気を失った土気色をしており爪は割れていた。肌は汚く皮はところどころ剥けていて、何よりも臭った。佳苗がヒュッと喉で息をすると湿気ったような線香の臭いが口の中に広がり、吐き気を催す。
「 おか かなえ さん 」
喉の枯れたようなガラガラとした女の声と共に肩をトンと何かで触れられ、佳苗は全身に怖気が走った。体中の細胞という細胞が危険信号を発している。
「いやあああっ!」
叫びながら総毛立った佳苗が振り向くと、しかし、そこには誰の姿もなかった。
「な、なんなのよ……」
いつの間にかモヤのようなものも消え失せていたが、線香の臭いは残り漂っている。佳苗がエアコンの風力を最大にして目一杯に働かせても、こびりついたように、へばりついたように、いつまでもくすんだ臭いは部屋の中で揺らぎ続けていた。
気の所為だ、気の迷いだ、と自分に言い聞かせながら、佳苗はドラマの配信を垂れ流しにして、買い物にも行かずソファの上で丸まり続け、明かりをつけたままその日は気を失うように眠りについた。
──────────
翌日、休日明けにも関わらず佳苗が疲れた顔で遅刻気味に出勤をすると、同僚たちはそんな彼女を心配しそうに迎えた。
「ちょっと大丈夫……? とても具合悪そうだけど」
「ええと、疲れてるみたいで……」
そう答えつつ自身のデスクにつこうとして、佳苗は一枚のはがきがデスクの中央に置かれていることに気がついた。それはあからさまに目立つように置かれてあり、反射的に佳苗は声が出ていた。
「あれっ……?」
「ああ、それ。わたしが来た時にはもう、あったよ」
隣の山崎が不安そうな顔で佳苗を見ていた。宛名面を上にして置いてあるそれを指差す。
「ごめん。なんだろうって思って、それ、勝手に見ちゃった」
「はあ」
山崎だけではなかった。そのフロアにいる全員が、佳苗の様子を遠巻きに注視している。佳苗は嫌な予感を覚えつつ、そのはがきを手に取った。はがきには差出人が書かれておらず、ただ、『おか かなえ さま』とひらがなで書いてある。
裏側の文面を見て、佳苗は小さな悲鳴をあげた。
『つぎはいつおいでになりますか』
目眩がし、どうしようもなく手足が震えた。自分でもわかるくらい、顔面から血の気が引いていく。
「ねえ、岡さん。本当にあなた大丈夫なの……? 変な男に付きまとわれてるとかだったら、すぐ警察に行った方がいいよ」
「は、はい……あ、いえ、これはストーカーとかそういうのではなくて……」
言葉を濁した佳苗に、山崎は「じゃあ何」と言いたげな視線を向けている。
「すみません」
山崎に頭を下げると、佳苗は置いたばかりの荷物を抱え、心配そうな顔をして彼女を見守る同僚たちの視線を避けるように俯いた状態で上司のデスクに向かった。
「あ、あの、すみません。わたしやっぱり今日は体調悪いみたいで……来たばかりですけど、帰らせてもらっていいですか」
上司の金田にそう言うと、彼は「いいよ、いいよ」とあっさり頷き、早退を承諾した。
「岡さん。何があったのか無理強いして聞くような真似はしないしできないけれど、絶対に一人で抱え込んでは駄目だよ。相談するなら──」
金田が何やらありがたいことを訥々と語りだしたが、佳苗はそれを遮るように頭を下げ打ち切った。
「すみません、ありがとうございます。……それでは失礼します」
無理矢理立ち去ろうとしている佳苗に、それでも同僚たちは何か言いたげにしていた。佳苗はその視線を無視してはがきをバッグの中にしまうと、脇目も振らずに勤め先を飛び出した。
陽の光が降り注ぐ中、佳苗は急ぎ足で歩きながら弟の祐介に電話をする。しかし何度コールしても彼は電話に出ない。
「何やってるの……」
焦りと不安から汗にまみれ震える指先で『大丈夫?』と何とか打ち込むと、佳苗はメッセージを送信した。そしてその足で電車に乗り込み、祐介の住む街へ向かう。
電車に揺られながらも佳苗は何度も携帯電話を確認した。何度確認してもメッセージアプリに祐介からの返事や既読のマークはつかず、ますます彼女は不安になった。
──もしかして。
嫌な想像を振り払うように佳苗は大きく息を吐き、手を膝の上で固く握りしめ足元を凝視する。
時折別の車両から視線を感じるような気がして、佳苗はその度に背筋がゾクリとした。挙動不審気味にキョロキョロと周囲を何度も窺う。
そういうことを何度も繰り返していると、やがて、訝しげにちらちらと佳苗を腫れ物でも見るかのように視線を送っていた何人かの乗客の視線とぶつかった。佳苗の険しい表情に凄まれて、彼らはたちまちのうちに気まずそうに顔を逸らす。そんなことを何度か繰り返しながら、もどかしい思いで佳苗は祐介の住む街へと向かっていた。
駅を早足で抜け祐介のアパートに到着すると、佳苗は階段を駆け上がり鍵のかかっていない弟の部屋の玄関を勢いよく開けた。
「祐介っ!」
短く狭い廊下を駆け居間に飛び込むと、彼女の弟は部屋の隅のベッドの上でぐったりと横になっていた。
「祐介っ! ちょっと、大丈夫!?」
「ああ、姉ちゃんか……」
「大丈夫なの!? 何かあったの!?」
「あー……その感じ、姉ちゃんも?」
佳苗がコクリと頷くと、祐介は足首を指し示した。
「俺はこれ……」
彼の両足首は誰かに力強く掴まれたのか、青紫色した痣がくっきりと残っていた。
「一昨日、帰ってきた時は何もなかったんだ。それで昨日。なんだか早い時間に急に眠たくなって寝たんだけどさ……足首を掴まれる感じで夜中に急に目が覚めたんだ。情けない話、怖くって。体を丸めようとしたんだけど、全然動かないの。やべえ、やべえ、と思っていたら、布団が盛り上がってきて……中から『ゲッゲッ』ってえづくような、女の笑い声がしたんだ」
「そう……あんたとは違う形だけれど、あたしのとこにも女が出た。職場にも、これ」
バッグからハガキを取り出すと、佳苗は祐介にそれを見せた。途端に彼の顔は歪み、吐き捨てるように呟く。
「なんだよそれ……気持ち悪い……」
祐介はモゾモゾと起き上がると、ベッドの端に腰を掛けて頭を抱えた。
「スマホは? 何度も電話したんだけど」
「あー、一昨日お祓いする時マナーモードにしたから、そのままだったかも……」
祐介はふらふらと立ち上がると、居間の中央に置いてあるこたつ机に近寄った。座椅子と向かい合うようにしてノートPCが置かれてあり、その横に携帯電話も置いてある。
ノートPCのディスプレイは真っ黒の画面だったが、本体の電源自体は切られておらず、ただディスプレイの電源だけが切れていた。祐介が携帯電話を取ろうとした弾みにマウスに触れ、画面がパッと明るくなる。
その画面を何気なく見た祐介は瞬時に表情が凍りつき、姉に顔を向けると魚のように口をパクパクとさせてディスプレイを指差した。
「どうしたの……」
画面を覗き込んだ佳苗も隣にいる祐介同様息を呑んだ。そこには祐介が書きかけた記事の下書きがあるが、何者かによりその続きに文章が書き加えられていた。
『怪異に追い回されるヒロインを演じるのは今や中堅と言ってもいい三条明里。彼女の十八番でもある真に迫った絶叫、恐怖に慄く絶望の顔は映画を見る者のせんじつはありがとうございました。とつぜんのごらいほうにはおどろきました。おあいできてうれしいです。いっしょにいられてとてもたのしかったですね。ところでどうしておまいりをしてくれなかったのですか。してください。てをあわせてください。おせんこうをあげてください。めをとじておがんでください。まってますので。』
祐介は力任せにノートPCを閉じると、その勢いのまま場にしゃがみこんだ。目の前が真っ暗になるような心地になった彼がようやく絞り出せたのは、呻き声ただ一つ。
「なん、でだよ……っ!」
開け放されたままだった玄関が風に押されて、激しく音を立て閉じた。