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拝みの家  作者: われさら
6/10

06. 夢

 「姉ちゃん、早く行こうよ」


 幼い頃の弟の声で佳苗はハッと気がついた。彼女は今、建物の外階段、その途中に立っている。見上げると、階段の先を行く小学校低学年の頃の半袖短パン姿の弟が「どうしたの?」と言わんばかりにこちらを見ていた。彼女もまた高学年くらいの背格好になっており、当時夏場によく着ていた水色のワンピースに身を包まれている。


 実家の地域にある図書館、その建物の外階段に佳苗はいた。この図書館は外階段を上った先にある二階が正面入口になっており、夏場などは汗だくでこの階段を上らねばならなかった。


「ああ、ごめん」


 姉弟はその頃仲の良かった子ら数人とこの図書館に向かっていた。階段の頂上ではその友人たちが大きく手を振って彼女を手招きしている。


「カナちゃーん! 早く、早く!」


「ごめーん!」


 佳苗も手を振り返すと階段を上がる。祐介はまるで徒競走でもするように全速力で駆け上がり、階段のてっぺんまで上りきると振り返り姉に向かって叫んだ。


「姉ちゃん、遅ーい!」


「うるさーい! 先、入ってて!」


 祐介と友人たちがケラケラ笑って、図書館へ入っていく。佳苗も少し遅れて階段を上りきると、振り返ってみた。遥かに高く遠い地点にいるような気がする。そんな気分が味わえるこの光景が佳苗は好きだった。ジリジリと夏の暑さを訴える蝉が鳴く中、ガラス張りの大きな正面玄関を押し開けて、佳苗は図書館の中へと進んだ。


 外の熱をまといながら進むと、やがて空調が効いてきてひんやりとした心地になる。館内の受付には近所で顔見知りの中年女性がにこやかに座っており、佳苗の顔を見ると「あら、いらっしゃい」と声をかけてきた。


「こんにちは」


 佳苗も挨拶をすると、静かに足を進めた。しかし、児童書コーナーや漫画本のコーナーを覗いても先に入った弟や友人たちがいない。どこにいるのだろうと、佳苗はキョロキョロとしながら書架の間を彷徨った。


 館内は静かで、誰かが本のページを捲る微かな音や受付で本の貸し出しを処理している音が聞こえてくるばかり。佳苗は少し焦った気持ちになりながら、立ち並ぶ本の背表紙が次々と現れる通路を行き来していた。


 どれくらい歩いた頃だろうか。ふと、一冊の本が通路に落ちていることに佳苗は気がついた。表紙は真っ黒に塗りつぶされていて、蛇の舌先のような赤い栞紐が表紙の上を這っている。タイトルを読み取ることはできなかったが、不思議なことに『柊笞 綾子』という著者名だけはくっきりとわかった。


「『しゅうち あやこ』……?」


 その名前を何故かスラスラと読み取れた自分に驚きもせず、佳苗は聞き慣れない名前に興味を惹かれた。床に座り込むとその本を広げ、パラパラとページを捲ってみる。


 何ページか斜め読みしたところで佳苗はこの本が小説であることを理解した。しかし、そこに何が書いてあるのか読み取れなかった。人の動きや感情の揺らぎ、場所も、時間も、何もかもがわからない。支離滅裂とさえ言ってよかった。それなのにページを捲る手は止められず、佳苗は夢中になってただひたすら次へ次へとページを手に取っていた。


 ふと気がつくと、座り込んでいる佳苗の前に二本の脚があった。生白い脛が微動だにせず彼女の眼前にある。


「あ、ごめんなさい」


 通路の中央に座り込み夢中になって本のページを捲っていた佳苗は、謝りながらどけようとした。


「今どけますね」


 本を閉じようと視線を下ろしたところで、その脚の持ち主が裸足であることに佳苗は気がついた。「あれっ?」と声が自然に出る。すると、その脚の持ち主は膝をかがめて佳苗の前にしゃがみこみ、手を伸ばしてきて佳苗が開いていた本をパタンと閉じた。


「え?」


 佳苗がきょとんとしてその人物の顔を見ると、「シー……」と口に指を立て女は佳苗に顔を寄せてきて、


「姉ちゃん、早く行こうよ」


 幼い頃の弟の声で佳苗はハッと気がついた。彼女は今、建物の外階段、その途中に立っている。見上げると、階段の先を行く弟が「どうしたの?」と言わんばかりにこちらを見ていた。


「ああ、ごめん」


 階段の頂上ではその友人たちが大きく手を振って彼女を手招きしている。


「カナちゃーん! 早く、早く!」


「ごめーん!」


 佳苗も手を振ると、階段を上がる。祐介はまるで徒競走でもするように全速力で駆け上がり、階段のてっぺんまで上りきると振り返り姉に向かって叫んだ。


「姉ちゃん、遅ーい!」


「うるさーい! 先、入ってて!」


 祐介と友人たちがケラケラ笑って、図書館へ入っていく。だが一人の少女が一歩も動かず、じいっと佳苗を見ていた。


 「おや」と思い佳苗は足を止め、その少女を見上げよく観察してみた。見慣れぬ出で立ち、見知らぬ顔つき。夏なのに長袖のシャツを着ているその子は佳苗の全く知らない子で、友人ではなかった。弟の知り合いですらなかった。佳苗と目が合うと、その少女は片手をゆらりと上げて佳苗の後方を指差す。


 その動きにつられて佳苗が後方を振り返ると、階段の下の方から、女が来ていた。この猛烈な日差しの中、黒い服を着ている。日傘も差さずに一歩一歩、決して急がず階段を上ってきている。その女は佳苗の視線に気がつくと顔を上げた。


 茫洋。女の目には白目の部分がなく、沼底の淀みのように暗い。対照的に顔は青く見えるほど白く、血の気が通っていないのではないかと思われた。面長顔した女はゆっくりと片腕を動かすと、口に指を立てた。


「シー……」


「きゃあああ!」


 佳苗は叫び階段を駆けた。頂上まできても、そこにいたはずの見知らぬ少女の姿はない。背後を振り返る余裕もなく、佳苗は混乱しながら図書館の中へと駆け込んだ。


 中は電気がついておらず薄暗かった。受付に人はおらず、来館者も誰もいない。先に入ったはずの弟たちの姿も煙のように消え失せたのか、気配すらない。


 呆然として佳苗が立ちすくんでいると、背後で図書館の玄関の開く音がした。振り返ると先程の女が立っており、やはり静かに佳苗の方へ歩み寄ろうとしている。


「捕まったらだめ」


 そんなことを考えながら、佳苗は書架の間を駆け抜け女から身を隠そうとした。児童書のコーナーも小説の棚も専門書の棚も雑誌もエッセイも漫画もCDのコーナーも、図書館には佳苗が隠れるようなスペースはない。佳苗はできるだけ身を屈めて棚と棚の間を静かに早足で逃げ回ったが、それでも女は追跡し追ってくる。


 佳苗は逃げて逃げて逃げ続けて、とうとう、普段は入ることのできない書庫の中へと逃げ込んでいた。


「はぁ……はぁ……」


 通常であれば図書館関係者しか入れないそのスペースは、薄暗くひんやりとしている。息を止めると、本が呼吸している様さえ聞こえてきそうだった。呼吸を整えようと胸に手を当てて深呼吸をしながら、佳苗は周囲を見回し隠れる場所を探そうとした。だがその暇もなく、女は書庫の中へと侵入してくる。


 佳苗は悲鳴を上げて書庫の中を奥へ奥へと逃げ惑った。彼女の荒い呼吸が書庫へ収蔵されていく。書物のためだけにあるそこは館内以上に隠れるような場所はなく、佳苗はただ奥へと向かうしかない。


「はぁっ……! はぁっ……!」


 そして、逃げ続けた佳苗の眼の前に現れたのは、仏壇だった。


 書庫の最奥には、仏壇が設けられていた。


 黒塗りの仏壇の外扉は開かれており、内部は金箔が貼られている。そして仏壇手前の経机の上には一冊の本が置いてあった。暗い表紙に著者名の『柊笞 綾子』という名前が読める。


「あ……あ……」


 驚き固まっている佳苗の背後にはもう、女がいた。しかし女は佳苗に構うことなく素通りすると、経机の手前に配置してある座布団に正座をした。手慣れた手つきで経机の抽斗(ひきだし)を開けマッチを取り出すと燭台のろうそくに火を点ける。置いてあった線香を女が数本手に取り二つ折りにし、ろうそくにかざす。たちまち、書庫にはむせ返るような線香の臭いが立ち込めた。


 香炉に線香を寝かせると、女はわきに置いてあったりん棒を手に取り、おりんを、打ち鳴らした。

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