04. 安請け合い
田川の話を聞き終えて、佳苗は心底後悔した。出来れば弟を罵ってこの喫茶店から今すぐにでも出て行きたかった。しかし、救いを求めるように学生たちに見つめられては、どうしようもない。
「──それで、姉ちゃんにお願いしてるってわけ」
軽い調子で祐介は姉に言ってみせた。田川の語りを所々補助していた林も重ねて佳苗に尋ねる。
「ぼくら、もうにっちもさっちもいかなくて……お姉さん、何か案のようなもの、ありませんか」
知りませんよ、とはとても言えない雰囲気の中、佳苗は曖昧にぎこちなく微笑んだ。
「ええと、そうですね……」
言い淀んだ姉を庇うように、あるいは先導するように祐介が口火を切った。
「またさ、その家に行ってみようか」
「えっ?」
露骨に嫌そうな顔をして、大学生たちは互いに顔を見合わせた。まさかそんなことを言われるとは少しも想像していなかった彼らの表情は、「無理無理」とあからさまに語っている。
「今度は夜じゃなくて昼間に行ってさ。そこできちんと姉ちゃんに祓ってもらう、っていうのはどうかな」
「ええ……」
新堂がぶんぶんと首を横に振った。今にも泣き出しそうな顔をして、「いやです」と蚊の鳴くような声で拒絶している。彼氏である林もそれに同調した。
「あのう、ぼくら、出来れば行きたくないんですけど……」
「いや、お前らの気持ちはわかるけどさあ。でもこのまま放置しておくわけにもいかないだろ」
「それはまあ……でも、どこか適当なところで、お祓いとかってできませんか」
「黒翁神社でも駄目だったじゃん」と祐介はぼやき、四人を諭すように語った。
「やっぱこういうのはさ、きちんと現地に行って『ごめんなさい』って謝ることが大事なんだよ。迷惑をかけられた霊にしても、どこか知らない離れた土地で『メンゴ、メンゴ、許してね』ってされても気を悪くするだけでさ」
「うーん……」
「そうかもしれませんけど……」
佳苗は廃墟へ行きたくない一心から、煮えきらない大学生たちを応援するように助け舟を出した。
「わ、わたしは無理して行く必要はないと思うなあ。こういうのって本人たちの気持ちが一番大事だしね? 渋々来ました、みたいな感じでお祓いをするよりも、ありがたいお守りとか? 護符とか? 持っておいた方がいいと思うよ。うん」
「ちょっと姉ちゃん……」
そうじゃないでしょ、と訴えている弟の目を無視して、佳苗は続けた。
「中途半端な気分でやるくらいなら、やらない方がマシ。つまり結局は、あなたたち次第だよ。わたしや祐介がどうこう言ってもそこは変わらないし変えられないでしょ? 大事なのは、自分たちの素直な気持ちを強く持つことだからね」
行きたくないなら行かないでいいんだよ、という気持ちを込めて佳苗は彼らに微笑む。彼女の言葉を受け取ると、大学生たちは何やらしかつめらしい顔を互いに突き合わせてヒソヒソと相談を始めた。やがて意見がまとまると、姉弟に向き直り彼らは申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。
「すみません。実際のところ自分ら、あの家に行きたくないなって気持ちばかりで……」
「うんうん」
だよね、だよね、とまるで友人に相槌を打つように佳苗は頷く。
「そうだよね。行きたくなんかないよね。よし、じゃあ、廃墟行きは──」
「でも、お姉さんの言葉で目が覚めました」
「うん!?」
「お祓いを受けるとかどうとか関係なく、もう一度拝みの家に行って、そこできちんと謝罪をしてみようと思います」
「申し訳なく感じているこの気持ちを、あの女の人の霊にきちんと見せようと思うんです」
キラキラと希望に輝く大学生たちの表情が眩しい。佳苗は目を細めて彼らの予想外な方針転換に驚いていた。
──あ、でも、この様子だとお祓いは無しの方向性にまとまりそう。
などと佳苗が安堵しかけていると、祐介が改めて「お祓いはするよ」と言い添えた。
「ここまで話を聞いておいて放って置くことなんてできるかよ。な! 姉ちゃん」
もし今この瞬間、バールのようなものを握りしめていたら撲殺していた。佳苗は何も持っていない両手をぎゅっと握りしめる。その上、更に具合の悪いことに希望に燃える若人たちの目が佳苗を見つめており、凶行に走るわけにはいきそうになかった。
「本当ですか!?」
「お姉さんにお祓いをしてもらえるなら、もう、絶対大丈夫だと思うんです!」
「お願いします。お願いします!」
声を揃えて「お願いします」と頭を下げる彼らを無碍にすることなど佳苗にはできなかった。そんなことができる彼女なら、とっくに離席している。
「じゃ、じゃあ、お姉さん、ちょっと頑張っちゃおう、かなぁ……?」
大学生たちはわぁっと歓声を上げ、拍手までし始める。照れを誤魔化すように佳苗がわずかにコーヒーの残留しているカップを傾けていると、店員がやってきた。
「申し訳ありませんが、他のお客様のご迷惑になりますので……もう少しお静かにしていただけますか」
「あっ……すみません。すぐ出るんで」
祐介が代表して謝ると、大学生たちに小声で解散を宣言した。
「じゃあ、決まったな。行く日程をある程度絞ったらまたグループで連絡するからさ。今日はこれで解散」
「はい。お二人共、今日はありがとうございました」
「本当にありがとうございます! これでもう安心だね」
まるでもうすべて解決したかのように、大学生たちは姉弟に一礼をすると喜々として歩き去っていった。
「ああああ……」
個室から出ていく彼らの背中を見送ると、全身を脱力させ佳苗は大袈裟にため息を吐き両手で顔を覆った。少し、疲れている。
「どうしてこんなことに……」
「姉ちゃんがあいつらに発破かけたのが悪いよ。いや、今回の場合は良いのか?」
「そんなつもりじゃなかったのよ……!」
「さすが俺の姉ちゃんだなあ」
「馬鹿にして」
もう知らない、と毒づく佳苗の相手はせず、祐介はテーブルの端に置かれていた伝票を摘むとひらひらと振った。
「じゃあ俺たちも出ようか。悪いけど姉ちゃん、渡したいものがあるからちょっとウチに寄ってよ」
「ああもう、行けばいいんでしょ、行けば」
二人は少し間を置いて個室から出るとひそやかな店内を歩いた。祐介に支払わせている間、佳苗は入口のドアを開き外へと出てみた。店の入口のベルがチリンと鳴り、別れを告げる。未だ夏を手放そうとしない季節の空が街中に蒸れた熱気を漂わせていた。
──────────
祐介の運転する軽自動車で彼の住むアパートへと向かう道すがら、助手席にいる佳苗は手持ち無沙汰に携帯電話を触りながら弟に尋ねた。
「大学生の子たちは『女の霊が出た』って言っていたけど、あんたは信じていないの?」
「どうかな。信じているといえば信じているし、信じていないといえば信じていない」
「なにそれ」
まだ少しご機嫌ななめな様子でいる姉の横顔をちらりと見やって、祐介は言葉を選びつつ答える。
「『女の霊が出た』って点に関しては、そりゃ信じていないさ。でも一方で、あいつらが精神的に参っているのは事実だろ? だから信じてもいるし信じてもいないし、もっといえばどっちでもいい。俺の主眼は霊の有無じゃなくてあいつらをどう立ち直らせるか、っていうところにあるから」
「本当に?」
佳苗は相変わらず携帯電話の画面から目を離さずに応じた。
「あんたのことだから、そういうのが出てきてくれたらいいな、くらいは思っているんでしょ」
「はは。……そうそう、お祓いをするのに黙ってやるわけにもいかないからさ。祝詞ってやつを作ってみたんだ」
祐介は話を逸らすと、「かしこみ、かしこみ」と呟いた。
「ふぅん……ん? それ、わたしが読まないといけないの?」
「うん」
「……」
黙りこくってしまった。しまった、と思いつつ祐介は独り言のようにして続ける。
「やっぱり俺、あんまりそういう真面目な役回り向いていないんだよなあ。それに比べると、やっぱ姉ちゃんはすごいよな。あいつらも、あっという間に俺より姉ちゃんのこと頼みにしてる感じだったし」
「……自業自得」
佳苗もまた独り言のように応じると、ため息を発した。
──────────
祐介の住まうアパートはS大学からほど近い立地なため主に学生たちが住んでいる。平成の中頃に建てられたという決して新しいとはいえない三階建てのアパートに、佳苗は数年ぶりに訪れた。
二人は会話少なく外階段から三階の祐介の部屋へ向かった。夕刻が近づいていたがまだ日は高く、祐介がドアを開けると閉め切った部屋に籠もっていた熱気が外へ溢れてくる。
「あっつ!」
部屋に駆け込むと祐介はエアコンのスイッチを入れた。外で室外機が唸り声を上げ熱交換を始める。
佳苗が以前この部屋を訪れたのは、彼が一人暮らしを始めたばかりの時。あの頃からすると不必要な物が増え、散らかっているように感じた。部屋の中央のこたつ机にはノートPCが開かれたまま電源を切られており、その脇には彼の趣味でもあり仕事道具でもあるマイナーな映画の資料が散乱している。
台所の流しは片付いているものの、それは食事のたびに祐介がきれいに洗い片付けているからではなく、洗い物が出るような食事を彼があまりしていないせいだと佳苗は瞬時に見抜いた。
「ほら、これ」
部屋をチェックするように念入りにキョロキョロと見回している姉の視界を遮って、祐介は彼女のために用意したものを見せた。
「うっわ……」
透明なビニールに包まれたままの巫女装束。それら衣装群を祐介は次々と彼女に手渡してくる。
「襦袢に白衣に緋袴だろ。これが掛衿で、こっちはほら、足袋。草履もあるよ」
佳苗は信じられない物を見る思いで赤や白の衣服を受け取り続け、心底実弟に呆れた。
「いやいやいや……! あんたこれ、いくら出したの!?」
「全部で五万くらいかな。あ、これ千早って言って上から着るやつなんだって」
こともなげにそう言い、祐介は巫女装束をまとめて入れる紙袋を探して部屋の隅を漁っている。
「『くらいかな』って……あんたねえ……」
「いやあ、生地がしっかりしたものじゃないと本物感でないと思ってさ」
「中身が偽物なんだから、いくらガワを取り繕っても意味ないわよ」
「まあまあ」
ぐちゃぐちゃと散らかっている山の中から発見した紙袋を祐介は佳苗に渡した。それでも佳苗は、しばらく包装されたままの巫女装束を半ば諦念と共に眺めていた。
「……本当は、神楽鈴も買おうかと思ったんだけどさ」
「手に持ってシャラシャラ鳴らすやつ?」
佳苗は握りこぶしの手首をスナップさせ、棒の先についた鈴を鳴らすジェスチャーをしてみせた。
「うん、それ。でも巫女服が思ったより結構高くついてさ……大分悩んだ結果、神楽鈴はやめにしたんだ」
「そんなことで悩めるなんて暇ねぇ」と罵倒しそうになるのを抑えて、佳苗は「ふぅん」とだけ返事をする。
「じゃ、そういうわけだから。家に行くまでにスムーズに着れるようになっておいてね」
「はぁ……」
「俺用の、祓串はあるよ」
部屋の隅に立てていた自作の祓串を手に取ると、祐介は振ってみせた。豊かな紙垂がさわさわと音を立てる。
「あんた……あの子たちのためだとか何だとか言って、結局は自分が楽しむためにやってるでしょ」
祐介は照れたように頭をかくと、用紙を二枚手渡した。それはもっともらしく縦に七折半、折りたたまれている。佳苗がそのうちの一枚を広げてみると、漢字の部分にふりがなが振ってある書き下し文で、祝詞が書かれてあった。
「『かけまくも かしこき』……」
聞いたことがあるようなないような、そんな気分で、佳苗は渡された紙を広げてざっと眺めてみた。
「それは祓詞と言って、お祓いの時に最初に唱えるやつね。んで、もう一つの方は祓詞の次に読んでもらいたいやつ」
「これ、二つとも覚えなきゃいけないの?」
「いや大丈夫だよ。本番でもそうやって紙を広げて読み上げていいから。あ、でも、つっかえたり棒読みにならない程度には練習してきてもらえると助かる」
「なんかわたしの負担重くない?」
用紙を元通りに折りたたみながら佳苗はぼやいた。
「まあまあ。俺は費用係ということで。それに準備だって大変だったんだぜ。その紙もちゃんとした用紙だし、雰囲気出すためにその祝詞だって俺の直筆。何回も書き直して、ようやくできたんだ」
得意気に語る弟にほとほと呆れて、佳苗は冷たい目で彼を蔑むように見た。
「努力の方向性、絶対間違ってるよ」
「いやでもさあ、姉ちゃんもちょっとはその気になってきたでしょ?」
祐介がいたずらっぽく笑いながら見つめ返すと、佳苗はやれやれといった調子で巫女装束を入れた紙袋をぽんぽんと叩いてみせた。
「ま、やる以上はしっかり巫女さんをやらせていただきますよ。一応言っておくと、あんたのためじゃなくてあの子たちのためだからね」
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それから佳苗は、仕事から疲れて帰ってきた夜、巫女装束を着付ける練習をしたり祝詞を読み上げる練習をしたりして備えた。インターネットに公開されている動画を参考にそれらしく発声したりして。できれば早いうちにお祓いをしたいという大学生たちの希望に応えるため、佳苗は何度も練習を繰り返した。
木曜日の夜、予行演習として巫女装束を着付けた姿で祝詞を唱える様子が見たいという祐介に佳苗はムービーを撮って送ってやった。
『おお、ばっちりじゃん』
『本っ当、最悪。見終わったらちゃんと消しといてよ。あと、お礼』
『ありがとうございます!』
実際、祐介はこの数日でそれらしく祝詞を読み上げることができるようになった姉に驚くとともに感謝していた。
──いやあ、やっぱり姉ちゃんに頼んだの正解だったな。
これなら大丈夫だろうと、祐介は「土曜日にお祓いを決行する予定だけど大丈夫か」とメッセージを飛ばす。すぐに各々から了承の返事が届き、祐介は「よっしゃ」と小さなガッツポーズをした。
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そしてやってきた土曜日。姉弟は大学生たちとキャンパスからほど近いコンビニの駐車場で待ち合わせをした。天気は予報通り快晴で、澄み渡っている。
「ここ、俺のバイト先なんすよ」
シフトを代わってもらったという田川は店内に入ると、スイーツを購入してレジに立っていた女の子に手渡し、しきりと頭を下げてから戻ってきた。
「お待たせしました。まさか『お祓いに』なんて言えないんで、面倒くさいサークルのOBに急遽連れ回されることになった、って嘘ついてきました」
田川はそう言うと、ニカっと笑ってみせた。
「おいおい、それって俺のことかぁ?」
「その通りじゃないの」
晴れやかな気分で彼らは声を上げ笑い合うと、N県にあるという廃墟へ向け出発した。
廃墟までは大学生たちが乗るレンタカーが先を行き、祐介がその後を追う形で軽自動車を走らせる。
「ふぁ……」
高速の退屈な風景を助手席から眺めていた佳苗は、大きく口を開けをふわふわと息を吐いた。順調に走る車は最近流行りの軽快な音楽を奏でている。
「天気が良くてよかった」
まるでこれからハイキングにでも行くみたいね、などと思いつつ佳苗も同意した。
「そだね」
エアコンのよく効いた車内は残暑の厳しさも時速百kmに近い速度も関係がない。ただ賑やかなBGMを聞きながら、佳苗は口元を覆いつつもう一度大きなあくびをしていた。