02. 喫茶店にて
土曜日のお昼時。休日の岡佳苗が地元の学生街にある喫茶店「馬耳塞」に入ると、すでに席に着いていた弟の祐介が片手を挙げて招いた。
「こっち、こっち」
古くからこの立地にある馬耳塞は学生たちの格好の溜まり場になっており、そこそこ広い店内では二人がけ用のテーブルを挟んで友人や恋人同士が向かい合い談笑している。視界の端で彼らの幸せそうな姿を捉えながら、佳苗は弟の対面に座った。
「せっかくの休日なのにごめん」
「本当よ」
先日、祐介が予想していた通り「すでに巫女服は用意してある」という弟からのメッセージを受け取った佳苗はカンカンに怒り、その日の夜に「どういうこと」と怒鳴りつけながら電話をしてきたのだった。その際、祐介は姉をなだめるだけに留め、彼女にほとんど説明をしていなかった。
そして今日、彼女が休日なのをいいことに、「説明するから」と、祐介は姉を喫茶店に呼び出していた。
「いやあ、それにしても毎日まだ暑いね」
「そうね」
当たり障りのない話題から切り出した弟を白けた目で見つつ、佳苗は店員にアイスコーヒーを注文した。
弟の祐介は地元の大学を出てそのままこの地に留まり、WEBライターとして仕事をしている。ここまではいい、と佳苗は思う。だが彼が扱う記事が他人にその内容を説明するのはやや憚られるような映画ばかりだと思うとため息がついつい出てしまう。
──どうせならもっと、キラキラのハリウッド俳優からサインを貰えるとか、TVで取り上げられるような映画の試写会のチケットでも貰える立場とか、そういうのになればいいのに。
そんなことを考えながら、佳苗は相変わらず不健康そうな痩せ方をしている弟をジロジロと観察した。
「あんた、ちゃんとご飯食べてるの?」
「食ってる、食ってる。素麺とかね」
「馬鹿。いつまでも学生気分で過ごしていると、本当に体壊すよ」
アイスコーヒーが運ばれてきたところで、佳苗は声を顰めて静かな怒りを発信しながら、未だ本題を切り出そうとしない弟を問いただした。
「──で、巫女服って何」
「ああ、うむ。しかし何から言うべきか、言わざるべきか……それが問題だ」
祐介は両手を広げ、大仰に演技めいた調子で台詞を発した。それにカチンときた佳苗が腰を浮かせる。
「帰るよ」
「じょ、冗談だよ。冗談。……俺、今でも時々大学のサークルに顔出してるんだけどさ」
「うっわ、面倒くさいOBじゃないのそれ。嘘、信じられない。それでも一応社会人でしょ、あんた。学生に混じって遊んでいて恥ずかしくないの。……まさかとは思うけど、変なことしてないでしょうね」
苛ついている佳苗の口からつい、刺々しい言葉が次々と吐き出される。
「いやいや、本当に少し顔を出す程度だって。それに、結構頼りにされてるんだよ。これでも。でさ、そのサークルの奴らが夏休みだっていうんで、N県の廃墟に行ってきたらしいんだ。肝試しみたいなもので」
「廃墟ぉ?」
「うん」
アイスコーヒーをブラックのまま口に含み、佳苗は目の前の肉親を眉を顰めて睨んだ。カップをテーブルに叩きつけないよう、意識してゆっくりと置くと話の続きを促す。
「ふうん……で?」
「そこでそいつら、怖い目にあったそうなんだね。別に誰かが怪我したり死んだりってわけじゃないんだけどさ。可哀想に、一日中何かに怯えて気が休まらないらしくて。それで俺と姉ちゃんで、あいつらの心の重荷を軽くしてやれないかと」
「いや……全く話が見えてこないんだけど?」
「うーん。ほら、俺たち神社で育ったようなものじゃん?」
「遊び場にしてただけでしょ」
幼い頃、姉弟は他の近所の子供たちと一緒に、家からそう遠くない場所にある神社でよくたむろって遊んだ。普段はひっそりとしているそこは、木陰もあり涼めることができ、公園の代わりに遊び場とするのにちょうどよかった。
「そうとも言うね。でも、神通力とか霊力的なものはありそうじゃん? ……特に姉ちゃんってなんか霊感ありそうだし」
祐介はそう言うと、姉の顔をちらりと眺めて黙った。
「……あんた……まさか、わたしに巫女服着せて、お祓いの真似事をさせようっていうんじゃないでしょうね」
「おおっ、ご明察っ!」
わざとらしく言うと、怒りに歪んだ姉の顔を直視しないように祐介はテーブルの上に両手をつき頭を下げた。
「お願いします! 姉ちゃんにしか頼めないんです!」
「い・や・よ! そもそもの話、真似事じゃなくて、本職の人に頼めばいいじゃない」
「一度大学近くの神社に行っているんだよ。そこでお祓いを受けたけれど、全然駄目だったらしくて」
「じゃあ尚更、素人の出る幕ではなくない? あのね、何考えているか知らないけれど、わたしを担いで馬鹿にするつもりなら、流石に怒るよ」
もうほとんどキレてるじゃん、とは言い返さず、祐介は席を立ちかけている姉をどうどう、と押し留めた。
「馬鹿にしてないって! ふざけた調子で誘ったのは謝る! ごめん! ……なんで姉ちゃんに頼んでいるかというとさ、実際にその廃墟に行って、お祓いっぽいことをしようと思っているからなんだ」
「はあ!?」
「多分あいつら、廃墟に無断で侵入したことが心の重荷になって、罪悪感背負って、それで精神的に参ってしまっているんだよ。だからあいつらをまた廃墟に連れて行って、そこでお祓いをしたら『もう大丈夫だ』ってすっきりとした気分になれるんじゃないかと、そう思ってるんだ」
「そこまでしてあげる義理、わたしにないでしょ!」
「だからこうやってお願いしているんだよ。姉ちゃん、頼む!」
「あんたねぇ!──あ」
大声で言い争っている二人に、店内の客たちから白い目が向けられていた。佳苗は顔を赤くし静かに席に座り直すと、怒りと恥ずかしさをため息と共に押し出す。気持ちを落ち着かせると再びカップに口をつけた。
「……彼女に頼みなさいよ。牧さんはどうしたの」
「この前フラれた」
バツが悪そうに顔を歪めた祐介を、ざまあみろ、と思いながら佳苗は眺めていた。
「俺にはもう、姉ちゃんしかいないんだ。改めて、姉ちゃん頼むよ」
「そもそも巫女、いる? あんたがその大学生たちを一人で連れて行ってお祓いをしてあげればいいだけの話じゃない」
「こういうのって雰囲気っていうか思い込みが大事だからさ……俺、そういう役回り向いていないんだよ。わかるだろ」
顔の前で手を合わせて、「頼む」と祐介は繰り返した。
「いや、頼まれてもね……」
いくつになっても相変わらず軽薄な調子が抜けない弟に呆れながらも、佳苗は彼が冗談やおふざけで頼んでいるのではない、ということだけは理解していた。しかしだからといって、乗り気にはなれない。彼女はどちらかというと怖い話は不得手な方であり、廃墟へ向かう羽目になることは嫌だった。廃墟は不衛生だし忍び込めば不法侵入だ。その上、大学生たちにお祓いが本物だと信じ込ませるため、巫女服を着込んで演技をする必要があるという。その行為自体恥ずかしいし、お祓いをするふりをして彼らを騙すことになるのも気が引けた。
佳苗がどう断ろうか考えるために悩むふりをして弟から視線を逸らし窓の外の雑踏を眺めていると、店の入口がチリンと鳴った。ドアを押し開き、男二人女二人の学生らしき四人組がキョロキョロと顔を覗かせながら入ってきている。
祐介は「お」と声を上げそちらを見ると、手を挙げて招いた。
「おおい、こっち」
「誰?」
「その大学生たち」
「……え? はっ?」
四人組はおずおずと二人のそばまでやって来ると通路に佇み、戸惑っている佳苗にぺこりとお辞儀をした。
「岡先輩のお姉さんですね。自分らS大の者です。今日は自分たちのために時間を取っていただいて、感謝しています」
「え……あ、はい、祐介の姉ですけど……」
どういうこと、と睨むようにして佳苗が祐介を見ると、彼はどこ吹く風で席から立ち上がった。店員を呼び、店の奥にある六人がまとまって座れる個室へ移動させてもらう。各々が席に落ち着くと、ようやく佳苗に説明した。
「こういうのは早い方がいいと思ってさ。今日、こいつらからその廃墟に行った時のことを聞いてもらおうかなって。それでお祓いの方針を立ててよ」
勝手にお祓いの真似事をすると承諾したことにされている。佳苗は怒りのあまり、いっそ席を蹴って立ち去ってやろうかとも思った。しかし大学生たちの明らかに憔悴している様子を見ると無視はできず、ただ黙って曖昧に頷くほかない。
「とりあえず自己紹介から……俺はいいか。こっちは俺の姉貴で岡佳苗。普段は真面目に会社勤めしている。ただ俺なんかより霊感があるからさ、たまに、こういう相談事を受けてもらっているんだ。ちなみに彼氏募集中」
調子良く虚実ないまぜて語る隣に座った弟の脇を小突くと、佳苗は頭を下げた。
「どうぞ、よろしく。今日はまあ……うん……ええと、お話だけでも伺わせてください」
大学生たちは口々にお礼を言うと、順番に名乗った。男たち二人はそれぞれ、田川晃司と林和也。田川が四人のリーダー格で、映画研究会の他に緩いフットサルサークルにも所属しており引き締まった体つきをしている。一方の林は背が180cm以上ある痩身の男で、朗らかな性格なのだろう。先程の祐介の冗談にも声を上げ愛想よく笑っていた。
女性陣の二人は小関真奈と新堂美咲と名乗り、どちらも同じ学部で同じ学年。教育学部で将来小学校の教員を目指しているという彼女たちは、二人共こざっぱりとした格好をしている。しっかり者らしく佳苗の目には祐介以上に頼りになりそうな気配を感じ取った。しかし一方でどこか無理をして気丈に振る舞っているようで、やつれているのが隠しきれていない。それが佳苗の同情を誘った。
四人は二組のカップルで、田川と小関、それに林と新堂が交際をしているのだと佳苗に説明した。「姉ちゃん、残念だったね」と冷やかす弟のみぞおち辺りに握りこぶしを叩き込み、佳苗は廃墟の話を促した。
「それで、一体何があったの?」
「事の発端というか元凶というか……一番悪いのは自分なんです」
仲間たちに「気にしないでいいよ」と慰められる中、田川はぽつぽつと語りだした。