01. プロローグ
その日、岡佳苗は同僚たちと社員食堂でお昼休みを取っていた。お盆も明け直に九月になろうかというこの時期、それでも直射は刺すように肌を焼く。外回りから帰ってきた営業がハンカチで汗を拭い拭いして、外気の熱を社食に放っていた。
「──で、『思ってたのと違う』って言って仕事すぐ辞めちゃってさあ。親の金で大学まで出ておいて何事よって。わたしに何かと相談してくるくせに、そういうことは何も言わないで決めちゃうんだもの」
「頼りにされているんですね。佐藤さんがアドバイスしてあげれば、妹さんもまた、すぐに独り立ちしちゃうんじゃないですか」
年上の佐藤に気を使いながら佳苗がそう言うと、彼女は「甘いっ」と言ってバシリとテーブルを叩いた。
「カナちゃんは甘いっ。うちの妹がひとの言葉で素直に動くような人間ならどれほどラクなことやら。いい? いくら親兄弟でもいざという時に頼りになるのは自分だけなんだから。血を分けた人間だからと思って甘く見ていると、痛い目見るわよ」
「あー、わたしも親の介護とか今から想像すると頭痛いです……一応兄がいますけど、結婚して出てるし。嫂も義理の親の面倒なんかみたくないだろうし……絶対何か理由つけて逃げると思うんですよ」
佳苗より少しだけ年上の山崎が大げさにため息を吐く。それにつられて、他の面々もため息を吐いてみせた。
「真っ暗ねぇ」
「真っ暗ですねぇ」
彼女たちが外の快晴とは無関係な薄暗い曇天模様のムードに包まれて沈黙していると、テーブルに置いてあった佳苗の携帯電話がメッセージの着信を知らせた。佳苗がアプリケーションを開くとメッセージの送り主は弟の祐介。久しぶりに弟から着信があったことに驚き、思わずぽかんと開いた彼女の口から「あ」と声が漏れた。
「何? 彼氏?」
詮索するような目つきで噂好きの岩永が佳苗を見ていた。もし本当に彼氏からの連絡だったら根掘り葉掘り訊かれるんだろうな、などと思いながら佳苗は正直に答える。
「あ、いえ。弟からで」
「弟さん──ふぅん」
そうよね、彼氏いないって言っていたもんね、と言わんばかりに岩永は何度も頷いている。
「はい」
佳苗は手際よく短い返信を打ち返すと、何気ない素振りで携帯電話を仕舞った。
「たまに、くだらない、どうでもいいことを送ってくるんですよ」
そう言い切ると、これ以上自身の弟の話題に及ばないように、佳苗は目の前のサラダを突いてみせた。
佳苗の言葉を引き継いだ佐藤が「金の無心じゃないだけマシよ」とぼやき、また彼女の妹についての愚痴が並べ立てられだした。内心で佳苗はほっと息を吐き出しひとまず安心した。今この場で弟の愚痴を語りだしたらお昼休みをオーバーしてしまう。佳苗の脳内を、先程届いた祐介からのメッセージが彼の軽薄な声と共によぎっていく。
『姉ちゃんさ、巫女服に興味ない? 絶対似合うと思うんだけど』
あいにく、そんなメッセージに返す言葉を彼女は一つだけしか持ち合わせていなかった。
『ころすぞ』
──────────
「うおっ、姉ちゃんこっわ」
岡祐介は学生時代から住んでいる古ぼけたアパートの狭い一室で手足を伸ばし仰向けにひっくり返ると、ウーンと唸った。さすがにあの誘い文句で姉がポジティブな返信をよこすことはないと思っていたし、乗り気になられても身内としては気色悪いものがあった。しかし殺意を込めた返信がくるとなると、間を置かずに続けてメッセージを送るのは躊躇われる。
「どうするかなあ……」
暫し祐介は自分が用意していたメッセージの文面を眺めて迷っていたが、事前に打ち込んでいたメッセージを修正するのも煩わしかった。
「……ま、いいか」
彼は独りで苦笑いをすると、メッセージアプリの送信ボタンをタップした。
『実はもう、巫女服の準備はしてあるんだ』
携帯電話が軽薄な音を立ててメッセージを送信したことを知らせる。今夜には姉からお怒りの電話が掛かってくるだろうと考え、祐介は身を起こすと座椅子に座り直し、こたつテーブルの上に置いてあるノートPCに向かった。
彼はWEBメディアで映画ライターとして執筆している。『おかゆ』名義で活動している彼が専門とするのは、いわゆるB級とかC級とか評される、エンターテイメントのメインストリームには出てこないような映画だ。その手のジャンルの常でコアなファンが彼のレビューを楽しみにしてはいるものの、やはり需要はそこまでない。
「ん──」
構えだけは名ピアニストのようにキーボードの上で指を広げていたが、アルファベットの刻印がされているキーを彼の指は叩かなかった。
「だめだ、こりゃ」
大袈裟に息を吐くと、祐介は学生時代から囚われている低い天井の一室で伸びをした。力を込めて腕を真っ直ぐ上に伸ばすと、運動不足の腕がミシミシと軋む。
先日、彼の後輩にあたる大学生たちから相談を受けて以来、祐介はずっとこうだった。原稿に向かい合おうとしても気が乗らない。気が散る。気が逸れる。仕事に集中できないのは自分が抱えている問題のせいだと、他の誰でもない自分に言い訳をしてしまう。
その解決のためにも彼は姉である佳苗に連絡をしたのだったが──
祐介は天井を見上げると、誰とはなしに呟いた。
「『拝みの家』……ね」
──────────
あの家に行ってからだ。
全部、あの家に行ってからおかしくなってしまった。
田川晃司は部屋の郵便受けに入っていたはがきをゴミ箱の直上でビリビリに破り捨てながら呻き声を上げた。
その家へ田川は恋人である小関と、もう一組の男女のカップルである林と新堂を誘って行った。ほんの肝試し気分で、拝みの家と呼ばれている廃墟へ行ったのだった。そしてそれ以来、彼らの身の回りでは不可解な現象が起こり続けている。
しかし小関も林も新堂も、誰も現在の状況の責任は田川にあると言わなかった。言ってくれなかった。いっそのこと素直に「お前が誘って連れて行ったせいだ」と三人が言ってくれれば田川も気が楽になるのだが、三人は口を揃えて田川に責任はないと言ってくれる。そのおかげで、ますます田川は自責の念にかられた。
他の三人が田川の責任を追求しなかった一つの理由には、四人の中で彼が最も怪奇現象を被っていることにもあった。その原因は田川自身がよく理解している。まず第一に、あの家の情報を手に入れそこへ行こうと言い出したのは自分だし、実際に玄関を開けて一番に踏み込んだのも自分。そしてあの時、奥の仏間の襖を開けてしまったのも──
あの夜の記憶がじわじわと頭の底から這い出てこようとしている。田川はぶるりと身を震わせると、それをまた記憶の淀みに沈めるために頭を振った。混濁したい記憶の澱が余計に脳髄をちらつかせる。
藁にも縋る思いで田川が最後に相談したのが、彼らのサークルのOBでもある岡祐介だった。映画研究会と名乗ってはいるものの、実態は映画を見ながら酒を飲んでいるだけのサークル。そこへ時折ふらっとやって来て一緒に駄弁るだけの彼に、田川たちは相談したのだった。
「それ、もっと詳しく教えてよ」
岡祐介は笑いも否定もせず、極めて真面目に田川たちの話を頷きながら聞いていた。そして田川たちが語り終えると、やがておもむろに、重々しく、彼は口を開いた。
「実は俺の家、神社に関係があるんだよ。いや、残念ながら俺にはそういう神通力みたいなのってないんだけど。ただ、俺の姉ちゃんにはちょっと霊感のようなものがあってさ。今度、姉ちゃんにこのこと相談してみるよ。いいかな?」
下手な演技だった。普段の田川たちであれば、「神通力って。霊感って。ちょっと先輩」と笑いながら返しただろう。しかし切羽詰まっていた彼らにそれは、救いの言葉だった。「お願いします!」と、四人は即座に声を合わせて頭を下げていた。
すでにそれから三日経過している。頼みの先輩からの連絡を首を長くして待っている田川たちには辛く、一日が、一時間が、一分一秒が長く感じられ、まるで恋人からの連絡を待つように、何度も携帯電話を手に取ってはメッセージの有無を確認していた。
「先輩、まだですか……」
もうしばらく掃除をしておらず、カーテンも長く開けていない薄暗い部屋の中で、田川はぽつりと呟いた。
あんな家、行かなければよかった。
後悔と焦燥に襲われ、田川はその場に膝を抱えて座り込んだ。