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ヒステリシス・ループ

部屋のドアを開けた。当然ながら鍵はかかっていない。玄関にはグッチのスニーカーが揃えて並べてある。僕は履いていた靴を脱ごうとして足元を見た。

まったく同じスニーカー。二足買った覚えはない。

ガチャ。

ドアの鍵が閉まる音がした。振り返ると涼子が立っている。僕の顔を見てニコッと笑うと、目をそらして叫んだ。

「達さあん、ただいまあ」

「おお、おかえり」まぎれもない兄貴の声だ。僕は涼子を睨みつけた。何かを言いたいけど、言葉が決まらないから口の形が定まらない。僕にもう一度視線を向けた涼子の言葉が先に出た。

「私たち、聖ちゃんの成功を祝いに来たのよ」

「まあ、そういうことだ」背中から兄貴の声がする。

意を決して振り返ると、兄貴が立っていた。ポニーテールで。

「達さんの勝ちね」今度は背中から涼子の声がする。

「だろう?」兄貴は涼子にそう言うと、僕の目を見て言った。「聖二はオレだって気づくはずがない、って言った通りだろう? でもまあ、スニーカーが被るとはなあ、流石に目立つと思って靴だけは買うことにしたけど、営業してる店を探すの苦労したよ」

「さすが実の兄ね、義理の姉よりも弟のことよくわかってるわ」

「誰が義理の姉だよ」僕は振り向いて言った。「騙しやがって!」

「どうして? 私は嘘なんて一つも言ってないわ」

「ストーカーだって言っただろう?」

「それ言ったの聖ちゃんよ、私は新幹線の同じ車両に乗っていた人と言ったの、一緒に来たんだから当たり前でしょう?」

「求婚の話はどうなんだよ?」

「今日東京駅で求婚されたなんて言ってないわ、あれは達さんが私にプロポーズしてくれた時の言葉なの」

「そんなこと言ったのか?」兄貴の声が背中から聞こえる。ああ、うるさい!

「聖ちゃん」涼子はなだめるような口調で言う。「達さんは、ものすごく落ち込んでいたのよ、でもね、聖ちゃんに会うことに決めてやっと元気になったの、息子は同じ年の子供がいる従妹にお願いしたわ」

「知るか、そんなこと」

「今日聖ちゃんと一緒にいてよくわかったわ」

「何が?」

「私、聖ちゃんの良き理解者にはなれると思うわ」

「へえ」

「でもね、一緒にいても楽しくないの、私たち、つまらない人間が二人そろっても楽しくないのよ、…だからこれからは姉としての愛情を聖ちゃんに注ぐわ、仲良くしましょうよ」

「は?」

「聖二、オレも兄としてひとこと言わせてもらうよ」また背中から兄貴の声がする。「PCのログインのパスワード変えた方がいいぞ、中のアプリ、IDとパスワード全部記憶させてるから、PCにログインされたら全部持っていかれるぞ」

「何?」僕はビックリして後ろを振り返った。

 兄貴は青い縁の角ばった眼鏡を僕の目の前に差し出した。涼子がかけていたやつだ。

「これ、いわゆるスパイグラス、聖二がPCの操作してる動画を涼子が送ってくれたよ、まあこんなもの数千円で手に入る、…大丈夫、何もしてない、今すぐパスワード変更しろよ」兄貴は涼子を見た。「聖二に嘘言ってないだろう?」

「もちろんよ、聖ちゃんに嘘をつかないことが賭けの条件だもの、私は仕事の時は眼鏡をかけるって言っただけよ、聖ちゃん、セキュリティ強化した方がいいわよ」

 そう言って涼子は僕の肩を撫でた。

泣きたくなってくる。もう何でもいいよ。


 あのあと兄貴はコンビニで大量のつまみとビールを買い込み、三人で当たり前のように飲んだ。いつの間にか僕は二人の質問に答える形で話し続けていた。

「シャワー借りてもいい?」涼子は訊いた。

「もちろん」僕は答えた。二人になったら何を話そうかと身構える心の準備を見透かすように兄貴は僕に言った・

「聖二、疲れただろう? 少し寝て来れば」

 そう言われると確かに眠い。

「そうだね、じゃあ兄貴もシャワー浴びなよ、出たら起こして」

「ああ」

 確かに僕はいつもとまったく違う一日を過ごし疲れていた。でも、小倉から出てきた二人の方がもっと疲れていたに違いない。僕は兄貴に甘えてしまったのだ。結局兄貴は僕を起こさなかった。

 二人は一晩中起きていたのだろうか。

 朝目を覚ましてリビングに行くと、二人はもう帰る準備を整えていた。

「オレたち帰るわ」兄貴は、どうせまたすぐ来るのだろう、と思わせる昔のままの口調で僕に言った。

「ああ、そう」昔のままの言葉が僕の口からも自然と出た。

「小倉にも来てよ」涼子が言った。その顔を見た途端名残惜しくなった。

「送っていくよ」僕は言った。

「いいよ、聖二、寝てろよ」

「そうよ、聖ちゃん、まだ眠いでしょう」

それはまるで何度も繰り返された挨拶のようだった。




2022年春


 涼子と兄貴が現れなかったとしても、僕の身に起きたことは何も変わらない。

 涼子と会ったことで思考停止したのは事実だが、それがなくてもコロナのせいで婚活をする場が蒸発してしまった。

 バカみたいに儲けさせてくれたアービトラージのアルゴリズムはゆっくりと調子を落とし、そして突然まったく利益を出さなくなった。

 1980年代に日本がバブルになった最大の理由は、円高不況を恐れるあまり過度の金融緩和を長期にわたって続けたためだと理解している。円高でもたらされるはずの不況の代わりに史上空前の好景気が実現してしまった。円高になったのも、もとはと言えば戦争に負けた日本を復興させるために過度の円安水準で固定された為替レートが、もうとっくの昔に持たなくなっていただけのことで、結局はあるべき姿に戻る過程だった。

 コロナがもたらした変化は、今後起こるべき変化のスピードを速めただけに過ぎないと言われているけれど、もうすでに金融緩和のカードを使い切ってしまった世界中の先進国は、景気対策のために空前の財政支出を行い、その結果投機資金が株式市場に殺到した。

 アメリカでは給付金を手にした個人が投資家となりSNSでつながってヘッジファンドがショートにしていた株を買い上げ、「アマチュアがプロを倒した」とニュースになった。でも、それは何百年も続く、カジノでディーラーを破滅させた客が称えられる歴史の一部だ。客がディーラーを破滅させてニュースになるのは、その逆のディーラーが客を破滅させても当たり前すぎてニュースにならないから。

 アメリカの株式市場が史上最高値を更新する一方、ビットコインにも資金が流れこみ、個人的にもう二度とないと思っていた2017年の史上最高値もあっさり更新された。金融関係のニュースの中で、個人投資家とビットコインに華々しい光が当たったが、僕の一日は自分の書いたコードの修正であっという間に終わり、一日の最後に、今日も成果が上がらなかった、とベッドに倒れ込む毎日を僕はひたすら繰り返した。

 なぜアルゴリズムがうまく行かなくなったのか、はっきりした原因はわからない。おそらくアルゴリズムにありがちなオーバーフィッティングになっていたのだろう。新たな投機資金が殺到したことでビットコインの値動きが今までとは変わってしまい、毎日少しずつコードを修正して進化させてきたつもりでいたものが、結局は新しい値動きという環境の激変に適応できなかったのだ。

 僕は少しずつコードを戻したが、どこまで遡っても光が見えず、最終的に一から作り直すことにした。もちろん、最初の時と比べてコードをシンプルに書けるようになり、時間も大幅に短縮できて、自分のプログラミングの技術が向上していることは確信できたけれど、再び自分の書いたアルゴリズムが利益を上げるのを見てもかつての歓びや達成感が戻ることはなかった。夜中に一人の部屋で興奮してウオー!と叫び声をあげることはもう二度とない。

そういえば7月の誕生日に兄貴から電話があった。

「アルゴがうまく行かなくなって毎日直してる。落ち着いたら連絡するよ」僕は正直に言った。

「根詰めるのもいいけど、気分転換も必要じゃないか?」

「誰も代わりにやってくれないから」

「オレたちが行ったせいか?」

「バカ言うな、関係あるわけないだろう」

「そうだよな」

 兄貴の誕生日も涼子の誕生日も、思い出したときはすでに二、三日が過ぎていた。そのタイミングでカレンダーを見ると、アルゴの修正にすでに費やした日数に愕然として、連絡をする気にもならず完全にタイミングを逸した。1年近くかけやっとアルゴの修正が完了した時にはもう二人に言うこともなかった。

 突然玄関のドアが開いて、涼子が現れる。

「聖ちゃん、大丈夫? 心配で様子見に来たわ」

「兄貴は?」

「別れたわ」

「どうせまた…、送ってもらって空港で別れたとか言うんだろう?」

 この全く同じ夢を二回見た。二回目は最後のセリフを言う時に、ああ、これは夢だ、と夢の中で気がついた。

 楽しいことも二回目は一回目ほど楽しくはない。僕が自分のアルゴリズムを作り直して気づいたことを、涼子はわかっているのだ。兄貴はきっと競馬のシステムがうまく行かなくなったらまた別のことを思いつくのだろう。なぜ、二度目がおもしろくないのか、僕は何日か考えた。途中の喪失。答えがわかっているものは面白くない、どうなるかわからないものを考える、そのプロセスに僕は面白さを感じてきた。徹底的にかかわり壮大な無駄な時間を費やしてきた。だからたどり着けた。でも、人間は結果でしか評価されない。どんな結果が出るかわからないものを続けるのは仕事ではなく趣味の世界なのだろう。

 夢に見るくらいだから、気がつけば涼子のことを考えていた。雑居ビルの屋上で言われた、僕と涼子と兄貴が似ているという言葉、どこが似ているのか時なぜ訊けなかったのだろう。

 涼子が兄貴の子供を妊娠して結婚すると聞いたとき、僕は今までの人生の最大の驚愕を経験し、暫くは何の感情も浮かばなかった。恨むとしたら兄貴よりも涼子だった。兄貴が涼子を好きになるのは仕方ない部分もある、涼子が受け流せばよかっただけだ、でも他の誰かを好きになることを止めることなどできるか? そうなった時に誰が悪いかと言えば捨てられる方が悪いのだ。僕は涼子と兄貴を絶対に許さないと誓ったけれど、自分の惨めさを取り繕うために被害者面をしたかっただけなのだろう、二人に対する怒りなんて一度もわかなかった。それどころか、僕はスペックの面では兄貴より自信を持っていたから、僕から兄貴に乗り換えた涼子を、なんて打算のない女だと思ったこともある。でも、涼子に会ってからわからなくなった。涼子は自分の側では見つけられなかった居場所を兄貴の側に見つけた。それこそが打算じゃないか。じゃあ打算って何? ここで思考が停止する。



一年前は昭和通りからタクシーに乗って後悔をした。今日は晴海通りを外堀通りに向かっている。日比谷公園と皇居の一角が近づいてくる。

涼子と一緒に走って死にそうになった反省から、あのあとすぐに運動をしようと誓った。ジムはどこも休業していたから、ネットでウェアとシューズを買ってランニングをすることに決めた。調べたら皇居一周は五キロ。まずは家の周りの短い距離から初めて、五キロ走れるようになったら皇居を走る。それを目標にした。予想通りと言えばそれまでだが、五キロ走れるようになる前に、梅雨に入り、真夏が訪れ、冷房の効いた部屋から出ることがなくなった。目標とした皇居は見る前に終わった。ここまで来たのだから、憧れの皇居でも見て帰ろう。

皇居ランナーはマスクをしているものかと思ったらそうでもない。マスク姿は少数派だ。颯爽と駆け抜けていくランナーは自分とはまったく別の生き物に見える。あのくらいならと、ハアハア言いながらゆっくりと走っている太ったランナーを見て思ったけれど、他人のやることは簡単そうに見える。僕は五キロなんて一生かけても走れない気がする。

小さなリュックを背負って僕を追い越した女性ランナーが二人、10メートルほど先で止まり、お濠の方を向いた。視線の先には鴨が数羽、水の上に浮かんでいた。

「いいなあ、私も仕事しないで浮かんでいたい」女の一人が言った。

「ええ、そう? なんでも羨ましがるよね」もう一人が答えた。

「そうかな?」

「そうだよ」

「鴨は人間を見ても羨ましいと思わないのかあ?」

「そりゃそうでしょう」

「他の生き物を見て羨ましがるのは人間だけ?」

「ああ、そうかも」

 足を止めて会話を続ける二人の後ろを僕は歩いて通り過ぎる。そりゃあそうだよなあ、心の中で二人のたわいのない会話に同意していた。一羽の鴨が向きを変えて大手町方面に滑っていく。その後を一メートルほどの等間隔を空けて三羽の鴨が付いていく。四羽の鴨が一直線に並んで悠然と水の上を進む。

 僕は数日でランニングを挫折した。すぐ脇を次々とランナーが追い越していく。この人たちは僕のできないことができる。その姿を見て自分と住む世界の違う人間だと思っている。羨ましいとは思わない。そう、僕は他人が羨ましくない。人間以下、動物並、なるほど、そういうことか。

 兄貴もきっとそうなんだ、涼子も一緒、そうか、やっと意味が分かった。三人が似ていると言った涼子の言葉の意味が。

 兄貴と涼子は結婚して言一緒に暮らしている。僕は群れから外れた。動物の世界だったらメスを取られた憐れなオスか。

もう、笑うしかない。

皇居の前で一人で笑い出したらすぐに人が来て取り押さえられるだろう。笑うこともできない。

じゃあ、泣くか…。皇居の鴨を見て泣くなんて、なんで人にできることができなくて普通はできないことができるんだ。

「辻田」突然声をかけられた。涙が出かかっていて視界がぼやける。「なんて顔してんだよ?」

僕は右手で目の当たりを拭った。隙のないスーツ姿の君島が立っている。

「なんで…」僕は言った。

「おまえこそ何してるんだ? ここ、丸の内のお客のところに行った帰りのオレの散歩コースだ」

「君島、おまえ幸せか?」

「はあ?」

「おまえ幸せかって訊いてるんだよ」

「何をバカなこと言ってるんだ、オレはもとも幸せになんてなるつもりはないし、おまえだって幸せになんかなれるはずがない」

「何でそんなこと言うんだよ?」

「まあ、落ち着けよ、辻田、おまえ幸せって何だかわかってるのか?」

「何だよ?」

「オレがいつも出世したいって言ってる意味はわかってるのか?」

「だから何だよ?」

「幸せって言うのはさあ、人と同じでいたいと思うことだろう? 成功するためには人を蹴落とさなければいけない、わかる? オレは幸せなどいらないから偉くなりたい、おまえだって人と同じことしないじゃん? 誰にもできないことを成し遂げてどうやって幸せになるんだよ? しっかりしてくれよ、おまえにそんなこと言われるとは思わなかった、ビックリさせないでくれよ」

僕は返す言葉がない。

「どうだ、またおごりたくなったか? しょうがないなあ、つきあってやるよ」

 君島は笑みを浮かべながら僕の横に回ると、右手で僕の肩を強く叩いた。パーンという音が響いたけれど、音の勢いの割には痛くない。

「辻田は持ってるよなあ、こんな場所でオレに会えるなんて」

「ふざけるな、それこっちのセリフだよ」

僕と君島は顔を見合わせて笑った。

「パレスホテルで待っててくれよ、会社に戻ってからすぐに行く」

「サボっていいのかよ? 出世に響くよ」

「オレを甘く見るなよ、おまえこそ引きこもり辞めたのか?」

「やめない」

「だよな」そう言って君島は大手町に向かって足早に歩き出し、背中を向けたままに僕に右手を振った。僕はスーツの後ろ姿をしばらく眺めていた。

「君島」僕は声をかけた。

「何?」君島が足を止めて振り返る。

「やっぱり今日はやめておくよ」

「どうした?」

「新幹線に乗りたくなった」

「いいじゃん、…引きこもりよ、旅に出よ」

「帰ってきたらいろいろ話すよ」

「いいよ、もう帰ってくるな」君島はニヤッと笑うと、再び背中を向け、もう一度僕の顔を見ずに右手を振って去って行った。


お読みいただきありがとうございました。

ご感想等いただけましたらうれしいです。

JH


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