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逃げる二人

 エレベーターは他の階にいる。ここに引っ越してから初めて階段を使った。無我夢中で駆け下りてマンションの外に辿り着いた。どちらに行くかを考えるつもりが、久しぶりに走ったから苦しくてたまらず、もう動けない。僕は足を広げ、両方の腿の上に手をついて背中を曲げて、激しく息を吐いた。足がガクガクする。顔を上げると少し離れた場所に、昼間に見かけたポニーテールの男が立っている。

「聖ちゃん」背中越しに涼子の声が聞こえたけれど、動けない。

「ああ!」突然涼子が叫んだ。その途端、ポニーテールの男が向きを変えて逃げるように走り出した。

「聖ちゃん、私と逃げて、早く」涼子は僕の腕をぐっと掴んだ。その瞬間、体の中で線が一本つながった気がした。涼子は男が逃げたのと反対の方向に走り出す。僕は訳も分からず涼子を追いかけて全速力で走った。

 その距離がどのくらいだったのか、何分くらい走っていたのか、わからない。土地勘のない涼子は狭い路地へ狭い路地へと逃げ込み、僕は後姿を追いかけた。必死で走っているのにまったく距離が縮まらない。息は上がりふくらはぎがつりそうになる。

「もう無理!」僕は叫んだ。

 涼子は足を止めて振り返った。はあ、はあ、吐息をしながら笑っている。僕はなんとかそこまでたどり着いた。

「よく頑張ったじゃない、聖ちゃん」

僕は両足を開き、両手を両方の腿の上に乗せて前屈みになり、荒い呼吸を繰り返した。少し前とまったく同じ体勢。声が出ない。

「走るの久しぶりでしょう?」

涼子はもう普通の呼吸で喋っている。僕はまだ呼吸だけで声にならない。涼子の顔を見上げる気にもならない。

「運動した方がいいわよ」涼子の声が妙な気持ちになるほど甘く響く。その声に引っ張り出されるように、僕は呼吸の中に声を混ぜた。

「誰?」

「ああ、あの人? …今朝の新幹線すごく空いていて、彼と私しか乗っていなかったの。途中で彼がトイレに立った時に、なぜか私の席の側でコケちゃったのよ、その時に手を貸してあげたの、東京駅で降りるときに、彼と目が合って、大丈夫でしたって訊いたら、はいって答えた、そのまま彼は先に降りたの、でもホームで私に向かって手を振った。それを見て私は走ったわ」

 涼子は間を置いた。何かを言わなければいけない気がした。僕は一瞬呼吸を止めて、「何か言われた?」と声に出し、またはあと息を吐いた。

「運命の出会いだと思います。僕と結婚してくれませんか?」

「はあ?」僕は初めて涼子の顔を見あげた。涼子は僕の顔を見てニコッと笑った。

「向こうはキャリーケースだった、私の方が行動が素早かったはずだけど…」

「どういうことだよ、何で子供がいる女がいきなり求婚されてストーカーされるんだよ?  …っていうか、オレのことつけてた間、涼子もつけられてたんじゃない? 尾行してる人間が尾行されるなんてバカか?」僕はたぶん死にそうな顔で喋っている。

「バカ? そうかもねえ」

 気がつけば日はすっかり暮れている。暗くて殺風景な通りに二人は立っていた。涼子は周囲を見回すと、「あっち行こうか」と言ってゆっくりと歩き出した。

「そっちは土手通りの方かな」僕は涼子のすぐ後ろを歩いた。

 少し行くと電気の消えている五階建てくらいの古い雑居ビルがある。隣の建物との間に、明るい時間に見たら緑色のはずのフェンスがかかり、一部がドアになってノブがついていた。非常階段が上まで続いている。涼子がノブをひねりゆっくりと押すとフェンス張りのドアが開いた。

「何してるんだよ?」僕は声を落としていった。

「鍵かかってないわ」涼子は同じように声を落として答えた。「聖ちゃん、上行ってみない?」涼子はすでに非常階段を昇り始めていた。

「これ不法侵入じゃん」そう言いながら僕も手すりにつかまって古い非常階段を昇る。

「大丈夫よ、見つからないから、バカと煙は高いところに昇るのよ、聖ちゃんも少しはバカになろうよ」

「犯罪はダメだろう?」

「公務員をクビにするのは結構大変なのよ、旅先で不法侵入して捕まって解雇された前例がなければ、私がクビになることはないの、聖ちゃんだってクビになることはないでしょう? 雇われていないんだから、見つかった時は、数年ぶりに姉弟で再会して気が大きくなりました、ごめんなさい、そう言って謝ればいいのよ」

 何を言ったところで涼子は止まる気はない。全速力で走った後に階段を昇るなんて地獄だ。この古い階段と手すりを信用して大丈夫か? 僕は喋るのをやめて手元と足元に神経を集中させて、何度も何度も狭い踊り場で折り返しながら、ビルの横壁に沿って上を目指した。

 非常階段は無事に屋上に続いていた。屋上には、高さ1メートルくらいの申し訳程度のフェンスの囲いしかない。飛び降りようと思えば簡単に飛び降りられる。暗いうえにビルの谷間、巨大なスカイツリーは見えるけれど、ここから見たら景色が変わるわけでもない。非常階段の正面に建物の中に入れるドアがあった。試しにドアノブを回したが動かない。

「不法侵入はダメでしょう」涼子が言った。

「どの口が言ってるんだ?」

僕はドアを背に地面に座り込んだ。涼子が近づいて、僕の隣りに腰を下ろした。

「楽しかったね」涼子は笑いながら言った。ちょっと忍び込んでみただけなのに、言われてみると確かに楽しい。この後に楽しくない出来事が待っている可能性はあるけれど、今はただ楽しい。

これからどうするんだよ? そう言おうとしたが、また言えない。僕は黙って涼子の顔を見ていた。

「この屋上何のためにあるんだ?」

「星を見るためじゃない?」

「そんなわけない、浅草から星なんか見えるか」

 しばらく涼子の返事を待っていたが何も答えてくれない。黙っていると何かが気まずい。なんて勝手な女なんだ。涼子に聞こえるようにはあと溜息をついた。

「私ねえ」涼子が突然言う。

「何?」

「聖ちゃんや達さんみたいにリスクが取れないの…、だから達さんが競馬でいくら稼いでも公務員をやめられないの、性分よ」

「よく言うよ、リスク取れない人間がこんなことするか、あの兄貴と結婚するか?」

「じゃあ、それがリスクだとは思ってない…、達さんもすごく頭のいい人よ、やっぱり聖ちゃんのお兄さんよ、でもねえ、普通にサラリーマンとかできない人、クリエイティブで忍耐強くて、人を喜ばすのが大好きで、お金を儲ける才能がある、なのに宮仕えはできないし人の上に立つこともできない、危なっかしいのよ、…私は反対、忍耐強くて言われた通りに仕事をこなすのが苦にならないの、でも自分で何かをしろと言われたら何もできない、それに贅沢も怖くてできない…、両親の教育のせいだと思うわ、父は長男ではないけど、父の実家は地元では少しは名の知れた家なの。そのせいもあって、稼いだお金をパッと使うなんて明日はどうなるかもわからない貧乏人の考え方だって教わって育った、自分の家族を守りたいならつまらないことを我慢して続けるしかない、一時の感情や熱狂にみんなが浮かれているときに、ただつまらない日常を繰り返している人間が結局生き残る、そんな考えが身についてしまったの。人に何かを頼むことができない、そういうところが聖ちゃんと似てるって私は気づいてた」

「オレは、気づいてなかった」

「うん、知ってる、…達さんは何でも人に頼むのに、達さんには誰も何も頼まないの、本当は人から頼られたい人なの、頼られたいから人に頼るの、だから…私は心を開けたの、…きっとこの人にも運の尽きが来るんだろうなあ、何をやってもうまく行かなくなる時期が、もしかしたら来ないかもしれないけど、たぶん来るでしょう、私は働くことがいやではないし、贅沢をしたいとも思わないし、人の欲望は限りなくて、何かを手に入れたら次はもっともいいもの、それの繰り返し、でも、達さんは何かを望んでいるわけじゃない、…ほとんどの人は競馬にロマンを求める、だから負けても納得して、勝負をしてよかったと思う、貧しい人がギャンブルを好む理由はそういうこと、達さんはそうじゃないの、ギャンブルをやるのはロマンのためでも熱狂のためでもない、自分が何かを証明するためでもない、確実に儲かるからやっている、落ちている小銭を拾い集めるのと同じよ、みんなバカだとか常識がないとか言うでしょう、でも長い目で見ればそういう人は確実にお金を増やしていくの、お金がないと生きていけないのだから、生き甲斐とかやりがいとか、与えられた仕事の中で見つけていくしかないの、もちろんできないことはできない、でもできることなら黙ってやればいい、私はただあの人の隣で日常を保ちたいの、私本当につまらない人間なのよ、でも達さんと一緒にいると私つまらない人間でよかったなあって思えるの、ギャンブルで儲けたあぶく銭で贅沢する能力がないのよ…」

 涼子の独白に対して何を言えばいいのかわからない。わからないから他のことを考えようと記憶を時系列に反対から辿った。ポニーテールの男を思い出した。

「あのストーカーから逃げることなかったじゃん、警察に突き出してやればよかった」僕は涼子の顔を見ないで言った。

「そうかな」

「またどこかで待ってるかもしれない」

「聖ちゃん、もう少し一緒に逃げようか?」

「どこへ?」

「小倉に行かない?」

「それは逃げるじゃなくて帰るだろう?」

「逃げ帰る、って言葉もあるわよ」

「もう新幹線ないのに無理だろう?」

「でも、サンライズ瀬戸があるのよ、寝台特急、岡山までは行けるわ」

 僕は恐る恐る涼子の横顔を見た。

涼子は、「墨田川はあっちだから…」とビルの隙間から見える隅田川に顔を向け、「ちょうど反対ね」と言って立ち上がり、僕に背を向けて西の方を向いた。

突然、マルコフ性とポアゾン課程が頭の中で水を得た魚のように動き出した。君島の解釈は正しくない。男はずっと変わらなくて、女は付き合った男で変わる、全然違う。涼子は涼子のままで、涼子と付き合ってしまった僕は他のタイプの女ではダメなんじゃないか…、これは終わりのない地獄かもしれない。でも、今は幸せな時間なのか…。

「聖ちゃんは私と一緒に悪いことしてくれなかったよね?」涼子が僕の心を見透かしたように言った。

「涼子は悪いことしたかった?」

「それを訊くの? …聖ちゃんらしいわ」涼子は振り向かずに答えた。

なんだ、今の発言は?

涼子は僕の理解者だったということ? …そうじゃないよなあ、じゃあ悪いことがしたかったのか? 悪いことって何だ? まさかPCをハッキングしに来たのか? いま僕をPCから遠ざけてるのは送金のための時間稼ぎか?

そんなことできないだろう…、でも、もし兄貴とグルだったら? 二人が僕を騙そうと決めたら、なす術はないだろう。それがわかったとき、僕はどう反応するのだろう。

涼子のいない世界で成功するよりも、涼子に振り回されている方が楽しいのかなあ…。

「聖ちゃん」涼子背中を向けたまま僕の名前を口にすると、間を開けて深呼吸をした。僕は口を開きかけたまま、涼子の次の言葉を待った。

「私に謝ってほしい?」涼子は振り向かずに言う。

「どうして?」僕は何も考えず反射的に答えた。自分の声を聞いて初めて、ものすごく気まずいことを言ったことに気がついた。

「ごめんね、聖ちゃん」涼子は振り向きざまに軽く頭を下げたが、すぐに顔を上げて右手を顔の前で振る否定のしぐさをした。「ああ、このごめんねは、違うの、今の質問に対するごめんねなの、聖ちゃんを試すような質問をして本当にごめんなさい、…答えはわかってたの」

「意味が分からない…」

「父の口癖があってね、世の中には信用してはいけない人間が二種類いる、一つは『人に迷惑をかけるな』という人間、人は迷惑をかけながら成長する、だから迷惑を受け止めてくれる人が必要、『人に迷惑をかけるな』という人間は自分はその役割を引き受けるつもりはないと宣言しているだけ」

「なるほど」

「もう一つは、人に謝罪を要求する人間、こういう人間は謝られても絶対に満足しない、こういう人間の言葉を信じてはいけない…、だからわかってたの」

僕は言葉が継げない。

「もう一つ、すごく虫のいいことを言うと、…さっき私と聖ちゃんは似てると言ったよね、でも聖ちゃんと達さんと私の三人にも似たところがある、聖ちゃんと一緒にいたことはそれがわからなかった、私は自分にないものを持っている聖ちゃんに惹かれているのだと思っていた、でもそれだけじゃなかった、達さんと結婚してそれがよくわかった、だから何、…でしょう?」

「そんなことないけど…」涼子はこんなに饒舌だったっけ、まさか兄貴の影響? 僕は意味のない言葉を口にしながら頭の中で別のことを考えていた。

「ねえ、聖ちゃん」涼子は吹っ切れたようにニコッと笑った。

「次は何?」僕は気持ちの中だけ身構えた。

「まずは部屋に戻ろうよ、鍵開けっ放しで来ちゃった」

「ああ、そうだった」涼子は鍵を持っていなかった、当たり前だ。

「とりあえず降りようか?」涼子は非常階段に向かって歩き出す。

「オレが先に降りるよ」

「危ないわ」

「オレが涼子の上に落ちるわけにいかないだろう」

 僕は涼子を制して先に非常階段を降りた。正直少し怖かったけれど、恐怖心がある間はまだよかった。無事に降りて建物の敷地を出て、家に向かって歩き始めると、涼子がすぐ後ろを歩いているにも関わらず何かが終わりそうな気がした。不法侵入をした勢いで東京駅を目指せばよかったのかもしれない。でも、涼子の荷物は部屋においたままだ。そうもいかない。

見上げるとマンションの部屋には灯りがついていた。涼子は僕を追いかけて電気も消さずに出てきたのだ。

寝台特急なんて乗ったことがない。涼子はどうするつもりなのだろう? 同じ部屋で寝るつもりなのか、それとも別々の寝台で寝ていくつもりなのか。もし同じ部屋だったら、涼子と話をしながらそのまま寝てしまうのだろうか。あるいは手を出す気になるのだろうか。それとも涼子が誘ってくるのだろうか。

想像を巡らせても、なぜか何一つ実現するような気がしない。戻ったら涼子を急かせてさっさと行動しよう。


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