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意気地なしね、私たち姉弟じゃない?

リビングのドアを開けると、女が両手で冷蔵庫のドアを開けて中に顔を突っ込んでいた。

「起きたの? 今ご飯作るからちょっと待ってて」女はこちらを振り向かずに甘い声で言った。

 僕は吸い寄せられるように女の後ろに立ち、しばらく後ろ姿を見ていた。振り向いた女は見たこともない顔をしている。

「おまえずっと家にいるけど、いったい誰なんだ?」そう言おうとしたつもりが、口から出てくるのはワワワワという音だけ。どうして? 喋り方がわからない!


 突然目が覚めた。悪い夢を見ていた。太陽は西向きの部屋の正面に見える。何時間眠ったんだ?

ドアの向こうには涼子がいる。

ベッドの上で大の字になったまま、しばらくこの態勢でいようと決意した。ぼうっとしていたら、昔DVDで見た「パリ・テキサス」という映画を思い出した。

あれは風俗店と言えるのだろうか。映画に描かれていないサービスがあるのだろうか。個室でガラス越しに受話器を通して女の子と話ができる店。こちらから女の子の姿は見えるが向こうからは見えない。主人公の持つ受話器の向こうからは、ナスターシャ・キンスキー演じる別れた妻が何も知らずに話しかけてくる。

僕は誰と話していたのだろう、本当は誰もいないんじゃないか。

自分が涼子とつきあっていた時間と、兄貴が涼子と出かけたこと、そのどちらかが虚構であってくれればいい。虚構が現実を乗っ取ってほしい。

涼子は本当に兄貴を愛しているのか。実は今でも僕に少しは気があるんじゃないか。

涼子の何が好きだったのだろう?

顔かな?

 涼子が涼子の顔をしているから、許せないと決意したことを思い出したところで、自分の感情がよくわからなくなった。考えごとをしたいからと一人になって、いったい何を考えようとしていたのだろう。金の無心にでも来てくれた方が復讐した気持ちになれて素直に喜べたのか…。



 リビングのドアを開けると、涼子は手持無沙汰な様子でソファに座っていた。テーブルの上にはペットボトルの炭酸水が一本、中身は半分ほど空になっている。他のものには触れてもいない。

「寝てたんでしょう? 聖ちゃんみたいに脳みそたくさん使う人は睡眠が大切なのよ、眠ってスッキリできるのは幸せね」

「そうかな…」

「達さんは時々眠れない夜を過ごすのよ」

「そんな繊細な人間とはね…」また兄貴の話か、僕は自分の態度を決めた。「説明したら帰ってくれるんだろうな?」

「そのつもりよ」

 その返事を聞いてほっとしているのか、がっかりしているのか、自分でもわからない。

「ビットコインってわかる?」とにかく喋り始めた。

「仮想通貨でしょう?」

「そう、今は正式には暗号資産と呼ぶけど、2017年に大暴騰した」

「聖ちゃんもそれで稼いだの?」

「そうとも言えるし、違うともいえる、…2016年、ビットコインはまだ数百ドルで取引されていた。それが2017年に1000ドルを超えた、そこから上昇が加速して、年末には2万ドル目前まで上がる、そこが高値、1年で何十倍にもなってその後は4000ドル割れまで暴落した。2017年に売り抜けられたら大儲けできたはず、わかるよね?」

「うん」

「現実には、売り抜けてやめるなんてまず無理なんだよ、普通に買いから入った人間のほとんどは売り場を逸したか、下がったところを買い直してもっと下がったか、そのどちらじゃないかな? メディアではビットコイン長者みたいなのが話題になったけど、あれは上昇相場につきもののまぐれ、実際にビットコインで儲けた人間の大部分はそっちじゃないと思う」

「そっちじゃなければどっち?」

「ちょっと長くなるけどいい?」

「大丈夫よ」

「前半の話は誰にでもできたこと、後半は、たぶんここにたどり着いた人間はそうはいないだろうと思う話」

「楽しみだわ」

「約束は守れよ」

「わかってる、話して」

「…ビットコインのマーケットはとにかく未成熟だった、取引所がいくつもオープンして、…取引所と言っても東京証券取引所みたいに実際に建物があるわけじゃない、バーチャルな取引所、…しかも取引所によってビットコインの価格がずれる、特に値動きが激しいとプライスのずれかたも激しくなる、Aという取引所ではすでに値段が上がっているのにBという取引所はまだ反応しないとか…、だから同じタイミングでビットコインを安く買える取引所と高く売れる取引所を見つけることができれば、それだけで利益が出せる。典型的な裁定取引、いわゆるアービトラージ。しかも2017年あたりは目で画面を見てもわかるくらいプライスがずれていた、ある意味、ビットコインという仮想通貨の裏に現実のお金を儲ける機会がいくらでも存在したんだ」

「じゃあ、予想がうまく行ったというわけじゃないのね?」

「予想なんてしても当たらない、勝てる勝負しかしないよ」

「へえ、勝てる勝負しかしないかあ…」涼子は、もっと話して、と目で訴える。

「でも長くは続かない、みんなが気がついて次々に参入するからね、そうなるとスピード勝負、それもあって自動売買を始めた、人間はアルゴリズムに勝てなくなる、アービトラージのチャンスをアルゴリズムが瞬く間に潰し、市場が成熟して、プライスのずれが小さくなる、もう派手には儲からない、細々とやるしかなくなる、割が合わなくて辞める人間も出てくる、そのおかげだよ、まだ多少はアービトラージのチャンスが残っていたのは…」

「でも、今年すごく稼いだって聞いたわ?」

「母さんに黙っていればよかった」

「お義母さん、喜んでたわよ」

「母親を喜ばそうと思ってやってるわけじゃない、理由は経済合理性だよ」

「どういうこと?」

「金がなければ生活できない、この取引をやれば金が稼げる、それだけのこと」

「じゃあ、好きなことしてるわけじゃないのね?」

 涼子の言葉にハッとした。自分は何となく好きでやっているつもりでいたが、経済合理性という言葉を持ち出すなんて、自分に言い訳をしていたということか…。涼子に指摘されるとは夢にも思わなかった。

「今から見せるよ」予定外の言葉が口から出た。

「PC見せてくれるの?」涼子が訊く。

「ああ、こっち」僕はバカみたいな返事をして、ベッドのある部屋を指さした。

「ちょっと待ってて」涼子はリュックを漁った。「眼鏡かけさせて、仕事の時はいつもかけてるの、ブルーライトは目に良くないの」

僕は涼子を部屋に招き入れた。涼子は青い縁の角ばった眼鏡をかけた。机の上にはPCと6台のモニター。僕は椅子に座り画面のスイッチを入れた。

「すごいわね」涼子は僕の後ろに立っている。「自動売買って、24時間動かしてるわけじゃないの?」

「機械は勝手には止まってはくれないんだ、何かバグでもあった時に怖いのはそこだよ、しかも経験を積むほど怖いものが増える、眠っている間に儲かるなんてそんなの絶対に無理、モニターもしないで動かすなんて怖くてできないよ…それに実際の値動きを見ることでアイデアが湧くこともある、だから毎日ここに座ってる」

「毎日?」

「そうだよ、何時間もね」

「何時間もできるなんて、本当は好きなんでしょう? 経済合理性とは違うんじゃない?」

 先ほどは素通りできた「好き」という言葉が、突然引っかかる。僕はさざなみのような動揺を隠すために、会話の中に数字をいれて画面を見たまま喋り続けることにした。

「ビットコインの価格は基本的にドル建てで表示されているけど、円建てのビットコインが取引できる取引所もある。たとえば、1ビットコインが1000ドルで、ドル円が1ドル100円の時は、円建てのビットコインは10万円になるはず。もしビットコインが10%上昇して1ビットコインが1100ドルになり、ドル円は1ドル100円のままだとしたら、円建てのビットコインは11万円にならなければいけない。でも、もしどこかの取引所で円建てのビットコインが10万5000円で取引されていたらどうする? こういうときは円建てのビットコインを買ってドル建てのビットコインを売ればいい。10万5000円払って円建てのビットコインを買って、ドル建てのビットコインを売れば1100ドルが手に入る。つまり10万5000円を1100ドルと交換している、10万500割る1100の単純な割り算だよ、1ドルが95円45銭で買える。為替のマーケットでは1ドルが100円、だから55銭儲かる。ドル円を間に入れるとビットコインのアービトラージのチャンスがさらに広がるんだ。今年の2月から3月はコロナウイルスのおかげで、ドル円もビットコインもとんでもない動きをした、値動きが激しいほど、プライスのずれ幅もずれる頻度も多くなる。だからすごく儲かった、ただそれだけだよ」

「それだけって言うけど、すごいじゃない」

「結局はすごく相場が動いたから儲かった、兄貴は相場が動いたから負けたんだろう? それまでの動かない相場では買って下がっても放っておけば戻ってきた、エントリーが下手でも待っていればどこかで勝てた、違う?」

「そうね、…達さんも自動売買で稼いだのよ」

「兄貴はプログラム書けないだろう? 市販の自動売買ソフト使ってた?」

「そうよ」

「当然負けるよ、動かない相場で勝てたアルゴリズムは動く相場では恐ろしく負けるんだ、最初はゆっくりと、その後は突然に」

「違うの、達さんはビットコインで負けたわ、でも自動売買していたのはビットコインじゃなくて競馬よ」

「え!」

「さすが兄弟ね、考えることが一緒よ」

「どうやって…?」

「達さんはオッズの変化だけを見てたの、情報はオッズに凝縮されてるから、オッズの変化を感知するソフトを使って稼いでたの」

「そういうことか、どうやって手に入れた?」

「ネットで買ったのよ」

「大丈夫か、そんなの?」

「作った人、今ではもう知り合いよ、この3年間ずっとうまく行ってる、ダメになったらやめればいい、今を楽しめって」

 …今を楽しめ、Enjoy it while it lasts. 僕の好きな英語のフレーズじゃないか。何で兄貴が使うんだ。

「でも一つ問題があるの」涼子は続ける。

「何?」

「税金よ、掛け金の25パーセントはJRAに持っていかれて、さらに税金まで取るの、しかも必要経費を考慮しない、達さん、税務署に何度も掛け合ってるの」

「必要経費?」

「はずれ馬券よ、当たり馬券だけを買うなんてないの、条件にあった馬券をもれなく買うの、その中に当たり馬券が含まれていて、しかも配当がはずれ馬券を含めた掛け金を上回ればプラスになる、それをひたすら繰り返せば年に10パーセントくらい稼げるみたい」

「10パーセント?」

「そうよ、達さんに言わせれば、ほとんどの人間はお金が何倍にもなるかもしれないと期待して馬券を買う、掛け金はなくなってもしかたがないと思っている、競馬で10パーセント回そうなんてまず思いつかない」

「じゃあなに、1億円儲けたということは兄貴は年間に10億円も馬券を買ってるわけ?」

「一年間の累積よ、レースが終わればすぐに現金化されるから、そこまで資金は必要ないけど」

「バカもそこまでスケールがでかいと確かにすごいな」

「達さんは達さんで頭いいのよ、さすが聖ちゃんのお兄さんよ、二人とも同じじゃない、絶対に負けない勝負をしてるじゃない?」

「う!」

「でも、達さんは眠れない人だから、聖ちゃんみたいにちゃんと脳みそを使っていないのかもしれないわね」

 兄貴が「頭がいい」と言われるのを初めて聞いた。しかも、僕は脳をフルに活用し、兄貴はたいして使ってはいない。地頭は兄貴の方がいいということか。

「ずっと昔…」僕は記憶を引き出しながら喋った。「競馬必勝法というのを話してくれたことがある、第1レースから最終レースまでとにかく本命の馬券を買い続ける。ただし、1番人気のオッズが2倍を下回る時は見送る。1レース勝てればその日はおしまい。もし負けたら掛け金を2倍にして次のレースの本命を買う。これを繰り返す。1番人気の馬が総崩れとならない限りその日はプラスで終われる。ただし、こんなのちょっと考えればわかることだけど、もしすべてのレースのオッズが2倍だったら、どこで勝ち逃げしたところで、最初の掛け金の分しか儲からない。例えば最初に1000円賭ける。第一レースで本命が来たら2000円戻ってくる。差し引き千円の儲け。もし第1レースで負けたら、第2レースに2000円賭ける。勝てば4000円返ってくるけど、第1レースの掛け金1000円と第2レースの掛け金2000円引いたら、やはり差し引き1000円にしかならない。もしずっと外れて最終の12レースまで行ったらその時馬券をいくら買えばいいかわかる? 256万円だよ、しかもその時点で255万9000円負けている。1000円稼ぐために550万以上の資金が必要になる。こんな割の合わない勝負誰もやらない、でも兄貴はやった、そして本当に11レースまで負け続けた、最初に買った馬券は500円だったらしいけど、それでもすでに100万円以上負けてる、そこにさらに同じ金額を突っ込む度胸は普通はないよ、でも兄貴はそれをやって勝った、しかも最終レースのオッズ3倍近かったみたいだから50万円以上プラスになったらしい、…ホントにただのアホだけど、ギャンブルに強いのはああいう人間なのかもしれない、さすがに二度と同じことはしないと言ってたけど…」

「達さんの話、聖ちゃんの口から初めて聞いたわ」

「そんなアホな兄貴の話、付き合ってる彼女に言うか?」自分の使った言葉に決まり悪さを感じる。「隠すだろう、普通、…涼子だって自分の旦那が競馬で大金稼いでるなんて人に言えるか?」

「そうね…」

「だいたい、オレは兄貴のことが好きじゃなかった」

「違うと思うわ、好きだから言わなかったんじゃない? 達さんのこと守りたかったんじゃない? だから、私に心を開いてくれなかったんでしょう?」

「そんなこと…」今さら言うのは反則だろう…、そう思ったが言えない。

「ねえ、聖ちゃん、達さんを連れてくるから聖ちゃんの取引見せてあげて」

「見たってしかたないだろう、無理だって、アルゴリズムっていうのは事故が起こることを想定しておかないといけない、トラブルに対処できない人間が使うと大惨事になる」

「ヒントをあげるだけでもいいの、達さんならきっと何か思いついてくれるわ」

「なんて理屈だよ? なんで兄貴のためにはそんなに一生懸命になれるんだよ?」

「だって達さんは、いつも私を必要としてくれるから」

どれだけ虚しいんだ。僕は涼子を好きだったけど必要としていなかったってことか。

「説明したんだから帰ってくれよ」僕は立ち上がって涼子の顔を見た。

「もう新幹線がないのよ」涼子は悪びれる様子もない。

「じゃあ、今日はこのベッドで寝ろよ、オレがひと晩どこかに行くよ」

「ああ、そういうこと?」涼子は目を輝かせる。

「何が?」

「一人暮らしって自由だけど、一人暮らしだからできないこともあるのよ、何だかわかる?」

「知るか」

「家出よ、聖ちゃん、家出がしたかったのね? 私と二人の今ならできるもんね」

「ふざけるな、鍵は開けっ放しでいいよ、明日の朝10時には戻るからそれまでには帰ってくれ」

「意気地なしね、私たち姉弟じゃないの、姉がいたら自分の家で寝れないなんておかしいわよ」

「トイレに行ってくる」そう言って僕は部屋を出てドアを閉めた。便座に座って用を足すと、まっすぐ玄関に向かい靴を履いて外に出て静かにドアを閉めた。

「聖ちゃん」気がついた涼子がすぐにドアを開けて追いかけてくる。


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