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兄貴の才能

マンションの外に出ると、オリーブ色の薄いコートを着た、今時珍しいポニーテールの男が立っている。年齢不詳なのはマスクと眼鏡のせいだけではないだろう。僕よりは年上だろうか。よほど自分の容姿に自信がないとポニーテールのような特殊な髪形はやめた方がいい。カッコいいか変質者の二者択一だ。彼は変質者の方に近い。眼鏡越しに僕と目が合うと同時に、逃げるように去って行った。

初めてコンビニで豆腐と油揚げと卵を買った。男の一人暮らしにこの組み合わせは侘しさしかないが、女に頼まれた買い物だと思うと少し顔が綻んでくる。バカじゃないのか、相手はあの涼子だぞ。


 自分の部屋のドアを開け「ただいま」と言うと、「おかえりなさい」と声が返ってくる。

 手を洗いキッチンに入って、コンビニの袋を涼子に渡した。

 ブルーの花柄のエプロンをした涼子は「7月からコンビニの袋、有料になるんでしょう?」と主婦のような話題を振ってくる。

 僕は適当に相槌を打つ。

「聖ちゃんの部屋なんだから、遠慮なくくつろいでね」涼子は勝手がわかっているかのように言う。僕は冷蔵庫を開けて炭酸水のペットボトルを出した。

「ビール開けようか?」涼子が訊く。

「今はいいよ」

「そう」涼子はそれ以上は言わない。やっと自分の意見が通った気がした。

 努めて涼子の姿を見ないように、ソファで横になり料理の完成を待った。ただ空腹を満たしたかった。

 テーブルに並んだのは、ご飯、麦味噌の味噌汁、おかずはタッパーと保冷バッグで持ってきた白身魚と野菜のマリネ、それにチキンカツをフライパンで味付けして卵でとじたカツ煮、どれも涼子が昔作ってくれたことがある。懐かしいなんて間違っても言うなよ、僕は自分に言い聞かせる。

「達さんはとんかつより牛かつ、牛かつよりチキンカツが好きなの、それも揚げたてより一晩置いてカツ煮にした方が好きなの」

 だから何だよ、と思いながら僕は黙っていた。いい匂いがして食欲を刺激する。

「お口に合うかどうか、まあどうぞ」

 僕は涼子の顔を見ずに「いただきます」と言って箸をつけた。

こんなに美味しい食事はいつ以来だろう。

僕は笑顔を噛み殺して一言「美味しいよ」とだけ告げ、食事に集中した。顔なんか見るものか。でも無理だ、集中できない。食事よりも大事なことがある。頭の中を整理しないと。僕はいつの間にか味わうのをやめている。目の前のことを一つ片づけるように涼子の作った料理を食べている。突然涼子が現われた。今日はもう日常には戻れない。

「食べ終わったら、少し一人にしてもらえる?」僕は涼子に言った。

「もちろんよ」涼子は自然の流れのように答える。食事の最中に食後の話を切り出したのは失礼だったと、涼子を見て気がついた。いや、そんなこと思わなくていい。だいたいなぜ僕は涼子に許可を求めているんだ? 黙って自分の部屋に籠っても文句を言われる筋合いはない。

 黙々と食べていたら、涼子が言った。

「聖ちゃんは考える人だよね」

女から自分のことをどうこう言われるのはいつ以来なのか、それよりも自分が話題になるのが嬉しいのか恥ずかしいのか、涼子の言葉は褒めているのかバカにしているのか、わかったところでどうリアクションをすればいいのか…、自分に感性というものがあるのなら錆びついているのだろう、いや、感性が金属のはずはないから錆びるという言葉は適当じゃない、じゃあ、どんな言葉ならいいのか…、だめだ、さっぱりわからない。

「そうかな?」僕はこれでも恰好をつけているつもりなのだろうか。


仕事部屋兼寝室のドアを閉めると、倒れるようにベッドに横たわり目を閉じた。嫌な気持ちになるための心の準備が徐々に整う。頭の中の栓を静かに抜くと、封印した記憶がゆっくりと染み出してくる。

辻田達郎、四つ違いの兄、二度と会いたくない人間。

 兄貴は頼みごとの名人だった。神経がなければ痛みを感じないが、羞恥心がなければ恥ずかしさを感じないですむ。兄貴の行動の第一歩は誰かに頼むこと、それがデフォルト。断られても顔色一つ変えない。がっかりする、恥ずかしくなる、後悔する、気が重くなる、…断られたときに僕が感じるネガティブな感情など、兄貴は想像したこともないだろう。欠けているのは羞恥心だけじゃない。物欲というか、所有したいという欲望もなかった。家にあったマンガはすべて僕が買った。兄貴は一冊も買ってない。読みたいマンガがあれば、まず友達に貸してくれと頼み、用が足りなければ弟の僕に買ってくれと頼む。世界中が兄貴のような人間だったら漫画家は職業として成立しないだろう。兄貴への悪口は弟の耳によく入ったけれど、それさえ慣れてしまえば、迷惑を被ったことは一度もない。借りたものは必ず返してくれた。大抵の場合利子もついた。一番多くの頼みごとを引き受けた弟の立場からすると、一度関わった程度で兄貴を面倒くさく感じる人間は、忍耐力が足らなすぎる。羞恥心が足りないのと忍耐力が足りないのとでは、後者の方が圧倒的に損をする。

 僕はガキの頃から勉強だけはできた。顔だって兄貴よりはずっとましだ。容姿に問題があるとしたら少し太っていることか。でも太っているのは一時的なものだ、永遠ではない。多少の欠点があるくらいが人間としては魅力的だと信じている。そうでなければ、僕より容姿で劣る兄貴が、昔から女の子にモテた理由がわからない。

勉強ができた理由は本ばかり読んでいたからだ。読めない漢字は辞書を引いて調べたけれど、教科書に出てくる漢字ごときにわざわざ辞書を引くこともない。そう鷹をくくっていたら小学校の国語の時間に「意図」という感じを「いず」と読んでしまった。「静岡の伊豆はいいところだが、これは『いず』ではなく『いと』だ」担任に直された。クラスの誰一人笑わなかった。「あの頭のいい辻田でも間違えるのか」とみんなが驚いて、時が止まったようだった。それ以来、見たことがない漢字の並びを見ると辞書を引くようになった。自分の行動を表現する「羹に懲りて膾を吹く」という諺を知ったのはもう少し後のことだ。ガキの頃は、なんでも知っているヤツと思われていることを意識していたから、わからないことを友達に訊くなんてとてもできなかった。訊くのは恥ずかしいことだと信じて、いつも自力で解決していた。

 兄貴は正反対。普通の神経なら四歳下の弟に勉強の質問などしないだろう。その感覚が兄貴には欠落していた。漢字だろうが計算だろうが、高校生の頃には中学生の弟に英語の単語だろうが、当たり前のように聞いてきた。読書感想文は代わりに書かされた。技術家庭の提出物を実際に作ったのはすべて母親か兄貴の友達だった。結果的にその恩恵は僕にも及び、自分で作った提出物もなど一つもない。兄貴のすごかったのは絵や書道の作品まで下請けがいたことだ。

 頼みごとの名人が本領を発揮するのはやはり借金だ。すぐには使う見込みのない金を僕が持っていると、どこからか嗅ぎつけて貸してくれと言う。その金をギャンブルに突っ込んで、必ず勝って配当をくれる。大学に入りお年玉収入が途絶えると、高校生の弟のお年玉を借りては錬金術のようにお金を増やしていた。

兄貴は就職した会社を一年もたたずに辞めて、しばらくはパチンコで食っていた。『台の読み方』みたいなガイドブックが出回っていて、それを丁寧に読めば誰でも絶対に勝てる、そう力説した。

「オレはギャンブルをしてるとは思ってない、確実な収入を得ているだけだ、パチンコ屋の開店前の行列を見たことがあるか? あそこに並んでる連中が持ってくる金を自分とパチンコ屋が山分けしている、まあ、オレの取り分なんて知れてるけど…、興味あればいつでもやり方教えるけど、聖二は興味ないだろう?」

 兄貴にとってはパチンコというのは期待値が一を超える、すなわち絶対に損をしない、賭けない理由のない勝負だった。期待値という言葉を理解するのはそれほど難しいことではないが、兄貴にはできないだろう。でも、期待値が一を超える事象を見つける方がその何百倍も難しいのに、兄貴には朝飯前だった。

 大学院に進んでから、僕は自宅通学をやめて一人暮らしを始めた。割のいいバイトもあり、実家からの往復三時間の通学時間がとにかくもったいない。ほどなくして兄貴がちょくちょく顔を出すようになる。大抵は肉とか寿司とか美味そうなものを持ってくる。就職の面接に行くからとスーツを借りに来たこともあった。スーツを買わずに借りるなんて就職する意思のある人間のすることではない、僕はそう勝手に理解していた。兄貴の真意なんて聞いたところで理解不能に決まっている。だから質問をしようとは思わない。食べ物ではとても世話になったが、厄介なことにこちらの都合も聞かずいきなり現れる。連絡がある時でも早くて一時間前。

ある日の夕方、連絡があった。

「上等な肉が手に入った、今から行く」

その日は付き合っていた涼子が泊まりに来る日だった。

「ごめん、これから彼女が来るんだ」僕は伝えた。

「ちょうどいいじゃん、美味い肉食わせてやろう」兄貴は嬉しそうに言った。

 兄貴の存在を涼子に隠していたわけではないが、実態については言葉を濁していた。兄貴がパチプロだなんて、あまり言いたくはない。

大学を卒業して就職していた涼子は、仕事帰りに泊まる予定で僕の部屋に寄った。兄貴は肉だけではなく、野菜とビール、さらには「おまえのところにないだろう」と新しく買ったホットプレートまで持って現れた。野菜を切るのも肉を焼くのも、全部兄貴の担当。涼子は「手伝います」と言ったが、兄貴は「仕事帰りだから涼子ちゃんは休んでよ」と、至れり尽くせりのサービスを当然の顔で提供した。外は冬の寒さだったけれど、部屋の中は熱気で顔が火照るほどだった。

それはいいが初対面の涼子にあまりに馴れ馴れしい。

「無理に兄貴に合わせなくていいよ」

僕の言葉を「ううん、おもしろいの」と涼子はさらっと返した。僕の言葉を聞き流しながら、兄貴のすべてを受け止めるように。

「なあ、聖二、頼みがある」話の流れの中で兄貴からお決まりの言葉が出た。

「兄貴は頼みごとの名人なんだ」僕は涼子に言った。

「へえ、そうなの?」涼子が興味を示した。

「で、今度は何だよ?」僕は兄貴に訊いた。

「今度パーティーがあるんだ、彼女を貸してくれよ」

「は?」

「IT起業家の六本木ヒルズのパーティーにご招待された、条件は女性同伴、だから涼子ちゃんを連れて行く」

涼子が隣りにいなかったら「冗談言うなよ」と笑って言えたかもしれない。涼子の手前、僕はわざと大きな声を出して怒って見せた。

「どこにそんなコネがあるんだよ? どうせ大して親しくもない人間に無理やり頼み込んだのだろう? そんな場所にのこのこ出かけても場違いな思いをするだけだよ、涼子まで恥ずかしい思いをする、絶対にそんなのやめろよ」

「いいじゃないか、恥ずかしい思いをしたって」兄貴は余裕をかませた。「どうせその場限りだろう、向こうはオレのことなんてすぐ忘れる、オレはそこまで自意識過剰じゃない、…違う世界を見られるというのは楽しいよ、…涼子ちゃん、どう?」兄貴は馴れ馴れしく涼子に訊いた。

「私は構いませんよ」涼子は躊躇いもせず答えた。

「じゃあ、決まりだな」

 その日、兄貴は帰り、僕は涼子と一緒に寝た。それが最後だった。

数日後、涼子は、パーティーの感想を「一度行ったら気が済んだ」と一言で片づけ、「仕事が忙しくてしばらく会えないかも」と言い残して電話を切った。学生の身には仕事というものがわからない、忙しいと言われたら、そういうものかと納得するしかなかった。兄貴からはまったく音沙汰がなくなったが、気にはならなかった。もともと思いついたときに兄貴から連絡がある、それだけの関係だった。

三か月後、涼子に呼び出されて僕は一人カフェに向かった。季節は巡り、家を出る前に見たニュースは、桜の開花時期を伝えていた。花見のことを考えながら店に入ると、涼子と兄貴が並んで座っていた。

兄貴は初めて、借りたものを僕に返さずに、自分のものにした。

涼子は妊娠していた。兄貴と結婚をして仕事を辞めて、実家のある小倉に戻る、もう二人ですべてを決めていた。

 二人を一生許すものか、あの時に誓った。

嫌なことを思い出して、嫌な気持ちになってきた。でも、思い出すと言うことは、忘れていたということだ。



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