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実現しなかった方の日常

 歩きながらずっと先月末の君島との会話を思い出していた。

…ああ、もうただでさえ運動不足のところに来て、マスクで歩くのは苦しい。これ以上歩き続けたら倒れるかもしれない。

タクシーを拾い、「浅草までお願いします」と告げた。人のいない都内の珍しい景色を期待して車窓を見たけれど、昭和通りに入った途端にガッカリした。人がいてもいなくてもこの景色は何も楽しくない。中央通りから乗るべきだった。僕は目を閉じることにした。


 マンションの前で車を降りなかったのは、「こんな時にどこに行ってたんだ」という住人からの無言の圧力を避けたかったからかもしれない。僕の人生は間の悪さの連続で、普段はまず会うことのないマンションの住人に、こんな時に限って姿を見られたりする。

 100メートルほど手前のコンビニの前で降ろしてもらった。外に出るとすぐ後ろにもう一台、左後部座席のドアの開いたタクシーがいた。その少し先にまたタクシーが一台。車の流れが少ないせいか、タクシーばかりが目に留まる。

 考えたら買うものもない。コンビニの前に立ったものの中に入るのが面倒になった。「まあ、いいか、寄らなくて」、僕は心の中でつぶやき、軽い後悔をした。もう少し近くで降ろしてもらえばよかった。

「聖ちゃん」

背中越しに声が聞こえた。

心臓が止まるかと思うほどドキッとした。こんな呼び方をする人間を一人しか知らない。

僕が振り返るのを待っていた女はマスクをしている。黒いカットソーの上に黒いロングカーディガンを羽織り、リュックを背負って、下はジーンズと真っ白なスニーカー。とにかく大きく開いた胸元に先に目が行って、顔を見るのが後になった。いや、見てはいけない顔がそこにあった。

「小倉から今朝出てきたの」涼子は目元に笑みを浮かべて手を振っている。

僕は言葉が出ない。マスク越しとはいえ、この声は確かに涼子の声だ。涼子の視線が突然鋭くなる。

「聖ちゃん、達さんを助けてよ」

冗談じゃない、…頭は反応したが、口が動かない。僕はしばらく黙り込んで涼子の顔を見ていた。涼子も黙っている。僕が口を開くまでずっと黙っているつもりか。

「病気でもしたか?」僕は吐き捨てるように言った。なぜこの言葉を選んだのか自分でもよくわからない。 

「それならお医者さんに頼むわ、もっと深刻なのよ」

「どんな風に?」口に出してから思う、どんな風に深刻か、なんて言葉はあるのか。

「達さん、投資に失敗して落ち込んでるのよ」

「なんだよ」やっと頭と口を結ぶ回路がつながった。あまりのくだらなさに力が抜ける。「いくら負けたんだよ?」

「一億くらいよ」

「バカじゃないの!」思わず言葉に力が入った。「それで金の相談にきたわけ?」

「違うわ、お金に困ってるわけじゃないの、私も働いているし」

「何してるの?」

「市役所よ、知ってると思ってた」

「知るか」

「それはいいの、生活には困ってないってこと、一億ってお金はね、達さんが自分で稼いだの、だからまた稼げばいいの」

「だったらそれでいいじゃん、よりによってこんな時期に何しに来たんだよ?」やっと腹立たしくなってきた、というより、涼子の姿を見たショックで本来取るべきリアクションの仕方を忘れていた。

「私に申し訳ないって言うのよ、見ていられないの」

「見なければいいだろう」

「もう可哀そうで…、聖ちゃんなら助けられるわ」

「何だよ、可哀そうって、大人のくせに」…オレは可哀そうじゃなかったのか? そう言おうとしてすぐに言葉を呑み込んだ。これは言わなくていい。「必要なら兄貴が来ればいいだろう、頼みごとの名人なんだから」

「その名人が一人で落ち込んでるの、相当なショックだったのよ、もし達さんが来ても聖ちゃんは追い返すでしょう? 今の達さんはそのまま黙って帰っちゃうわ、そのくらい達さんらしくないのよ」

「子どもじゃあるまいし、…だいたい一億も負けたらあの兄貴だって落ち込むだろう、兄貴がよくそんなに稼いだな、何したんだよ?」

「競馬よ」涼子は平然と言う。

「バカ言うな」僕は声を荒げて罵声を浴びせたつもりが、声が裏返り決まりの悪さを感じて、声を落とした。「競馬で稼げる人間が世の中に存在するか?」

「するわよ、…毎年億単位のお金稼いでいたわ、でも税金が高くて去年からビットコイン初めたら失敗しちゃったの、だから、聖ちゃんに助けを求めに来たのよ」

「オレの話、母さんから聞いた?」

「そうよ」

「なんだよ、こっちの情報だけは伝えてたか、…だいたいさあ、何でそんなにデスペラートな行動するんだよ、緊急事態宣言が出て外出するなって言われてるのに、非常識すぎるだろう?」

「聖ちゃんだって銀座に行ってたじゃない?」

「用事があった」

「どんな用事よ? 何もしないで帰って来たじゃない?」

「今銀座に住んだら飢え死にすることを確認した、…そんなことより、つけてたのか?」

「偶然よ、聖ちゃんのマンション探してたら、駅に向かって歩いていく聖ちゃんを見つけちゃったのよ、お取込み中かと思って尾行させてもらったわ」

「お取込み中なら尾行しないで帰れよ」

「そうはいかないのよ」

「よくオレだってわかったな?」

「だって」涼子が意味ありげに笑った。「グレーのパーカー、ジーンズ、白のグッチのスニーカー、達さんと恰好がそっくりだもん」

他人と同じ格好をするのが嫌で買ったグッチのスニーカーがまさか兄貴と被るとは…、とても恥ずかしいことを言われているのに、涼子の笑顔にひきずられそうになる。

「とにかく、帰ってくれ…」

「投資のやり方教えてくれるまで帰らないわ」

「本気で言ってるのか?」

「そうよ」

「バカなこと言うな、教えてもできないよ、無理」

「だったらできないということをわかるように説明してよ、納得できたら帰るわ」

「本当だな?」

「約束するわ」

「しかたない、カフェにでも行こう」

「やってないわよ、どこもみんな閉まってるわ…、ねえ、聖ちゃん、お腹空いてるでしょう? お昼作るわ、準備してきたの」

 意識を下腹部に持っていっただけでお腹が鳴りそうだ。僕は回れ右をして自分の家に向かって歩き出した。涼子がそのままついて来ると信じて。振り返って涼子の姿がなかったら、相当に心が乱れるだろう。そのときは探すのだろうか。涼子の影を追いかけて浅草を歩き回るのか…。

 妄想が膨らむ間もなく、マンションのエントランスの前に着いてしまった。自動ドアが開く位置に踏みこむ前に、立ち止まり軽く息を吸って、振り返った。涼子との距離があまりにも近くて、驚いてバランスを崩しそうになる。涼子は平然として、「どうぞ」とでも言うように掌を上に向けて右手を差し出した。

 エレベーターを待つ間、涼子をちらっと見た。ここでは視線を合わる気はないみたいだ。またついつい涼子の胸元に目が行った。エレベーターのドアが開き、僕は涼子に「どうぞ」と言った。僕と視線を合わせると涼子は他人行儀にお辞儀をして先に乗り込む。ドアが閉まると、前を向いて視線を斜め上に向けている。すぐに5階に到着する。「開」のボタンを押して涼子を見ると、今度は微笑を浮かべて左手を差し出している。菩薩みたいだと言ったら、女は喜ぶものなのか腹を立てるものなのか、よくわからない。僕は先にエレベーターを降りた。

 玄関の鍵を開け、僕は先に中に入り、ドアを押さえたまま、また「どうぞ」と言った。涼子はドアを閉めてから、「お邪魔します、聖ちゃん」と答えた。僕は下駄箱から男物のスリッパを出した。オニツカ・タイガーの真っ白のスニーカーを脱ぐと、涼子はスリッパに足を入れて、自分の靴を僕のグッチの横に揃えた。

「先に手を洗わせて、アルコール消毒液持ってきたの、聖ちゃんも使って」

僕は何も言わずに玄関脇の洗面所のドアを開けて、涼子を通し、リュックを下ろして玄関の端に寄せてマスクを外した。

リビングのドアを開けたまま出かけたので、室内は玄関からも見通せる。もともと部屋は片付いていた。というより活動が限定的で、散らかりようがない。それにしても、女が男の部屋に入ったら「散らかってるね」とか「綺麗にしてるね」とか「いいお部屋ね」とか、何か一言くらい言うものではないのか。部屋の感想は一言も口にしないまま、涼子は手を洗っている。どういう神経なんだ。

洗面所のドアの横で壁に寄りかかったまま、涼子の立てる物音を聞いていた。水道の水が流れた。水が涼子の手にぶつかり音が変わった。水の音が止み、リュックの中を探る音がして、「ねえ、顔も洗っていい?」と涼子の声が僕の返事を求めた。

「どうぞ」僕は答えた。三度目。何を紳士ぶってるんだ。

また水が流れる。水は涼子の手に当たり、顔を洗う音に変わる。自分が顔を洗う音なんて気にしたことがない。誰かが顔を洗う音を聞くのはいつ以来だろう。この音は懐かしい音なのか…。

「お待たせしました、先にさっぱりしちゃってごめんなさい」マスクを外した涼子がリュックを持って出てきた。顔が全部見えた。確かにこんな顔だった。でも今の方が綺麗な気もする。

「聖ちゃんもマスク外したのね?」何を言うべきか考えていたら涼子に先を越された。

うん、という返事は出てこないのに、インストラクションのような言葉は躊躇いもなく出てきた。「奥がリビング、適当に座って」

「ありがとう」涼子は廊下を歩いていく。初めて後ろ姿を見た。インプットが多すぎて、処理が追いつかない。

 洗面台には涼子が持ってきたアルコール消毒液の小さな瓶と、携帯用のうがい薬の容器が置いてある。僕は手を洗い、自分のコップでうがいをした。

 リビングに入ると、僕を待ち構えるかのように涼子はキッチンの冷蔵庫の横に立っていた。

「聖ちゃん、冷蔵庫開けてもいい?」

「何も入ってないよ、食料は基本デパ地下だから」

「ちょっと見るわね」涼子は冷蔵庫を開けた。「あら、ヨーグルトやゼリーはたくさんあるのに…、お豆腐とか油揚げはないの?」

「そんなものあるか」

「男の一人暮らしじゃあしかたがないかあ」涼子は冷蔵庫を閉めると、振り向いて言った。「コンビニでお豆腐と油揚げ買って来て、お味噌汁作るわ、麦味噌持ってきたの」

僕は反応できない。会話の反射神経が衰えているのか、相手が悪いのか…。

「東京に住んでみたら、地元の食材の美味しさを痛感したの。達さんも麦味噌の味噌汁大好きよ。」

まだ言葉が見つからない。

「おかずも仕込みだけしてきたの、保冷パックに保冷剤いっぱい入れてきたから大丈夫よ、…フライパン貸してね、そうそう、お米はある?」

「あるよ」やっと言葉が出る。僕はストッカーから未開封の2キロの米の袋を出した。

「いつ買ったの?」

「一応、今年だよ」

「じゃあ、お米先に研いでご飯炊いちゃうね、お豆腐と油揚げ、あとは卵も、それだけお願いします」ものを頼む時だけ丁寧な口調、これは兄貴の影響か…、まったくろくでもない夫婦だ。

「わかったよ」

涼子はすぐに米を研ぎ始めた。僕は靴を履き、玄関脇に置いたリュックを持ち上げた。いつもなら黙って家を出るところだけど、なにかきまりが悪い。

「行ってきます」僕は仕方なく言った。

「お願いしまぁす」涼子は答えた。きっと自分の家にいる時はこんな声を出すのだろう、そう思わずにはいられなかった。


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