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コロナ禍の銀座

「ああ、金はあるのに、使う場所がない」

銀座駅を降りて三越の前から地上に上がり、松屋の前まで歩く間に思いついた言葉を声に出してみた。

春霞の季節なのに雲一つない青い空。僕の言葉は誰の耳にも届かない。

 木村屋の二階の食事客は、銀座の街を優雅に見下ろすどころか身を潜めているように見える。ショップもレストランもことごとく営業していない。京橋方面から、一台の車が中央通りをゆっくりと走ってくる。後続は二つ先の赤信号を待っていた。黒いスーツの女が、仕事中です、と背中で語りながら自転車で目の前の歩道を通り過ぎる。歩行者を避けることもなく自転車はまっすぐに遠ざかる。ネットの回線も含めてトラフィックは滞りなく動いている。動いていないのは街の方。緊急事態宣言が発令され、経済は止まり、淡いピンクの春の気配だけが穏やかな風に乗って流れている。

 こんな状況になる前に、成功の記念に大きな買い物でもすればよかった。でも、何が欲しかったのだろう。欲しいものがないのなら何のために金を稼いだのだろう。

数分前、地下鉄の改札を出て階段を数段上ったところで、僕は突然足を止めて引き返した。直前に通り過ぎた光景が、時間差で目の前によみがえった。タクシーを使わず銀座線に乗ったのは、乗客のいない地下鉄を見たかったから。自分以外の乗客を見た瞬間、僕は地下鉄に乗った理由を忘れた。少し前の光景がもう一度見たくて、改札の方へ戻ると、マスクをした駅員が突き刺すような視線を向ける。人里離れた僻地に足を踏み入れたよそ者みたいだ。改札の内と外を隔てる銀色の枠に沿うように進み、駅員の死角に入った。目の前を一人の女が歩いていた。女が視界から去るのを待って、スマホで写真を撮った。銀座四丁目の交差点の真下、人の姿が完全に消えた銀座駅の改札前の光景が僕のスマホに保存された。

地上ではまばらな人の動き。歩行者の少なさが、誰もいないよりもよけいに生々しく異様さを浮かび上がらせる。ほとんどが死に絶えた街で、わずか数名の生き残りが何事もなかったかのように変わらない日常を営んでいる、SFのような現実。生き残った人間にサバイバルの能力があったわけではない。寝ている間に周りが死んでしまったけれど、もともと他人と関わっていなかったから生活は何も変わらない、そんなふうに見える。中央通りに並ぶハイブランドのショップが二度とオープンしなくても、今目の前を歩いている人は誰も困らないだろう。もちろん僕も。

銀座は恐ろしい。話には聞いていたが、三越も松屋も食品売り場さえ営業していない。デパ地下の総菜に食料を依存している身としては、ここに引っ越したら飢え死にするところだった。

「そんなに金があるなら銀座にでも引っ越せば」

君島にそう言われたのは一か月前、緊急事態宣言が発令される少し前の三月半ば。あれ以来連絡を取った人間さえいない。

休業中の松屋のショーウインドを眺めていたら、写真をもう一枚撮りたくなった。透き通ったガラスに、スマホを構えた自分の姿が写り込む。

辻田聖二、32歳、職業は…悪いことをしてニュースになることがあれば会社経営者、自称個人投資家。

背後には駐車中のシルバーのメルセデス。歩行者のいない瞬間を狙ってシャッターを押した。保存された画像に映り込むすべてはショーウインドを挟んでこちら側か向こう側のどちらかにある。透明なショーウインドを写したつもりが、透き通っているものなど何一つなかった。

 何かを成し遂げたら、世界は油彩画のように色鮮やかに見えるのか、水彩画のように透き通って見えるのか、そのどちらかだと思っていた。そもそも水彩画を描く人は、透き通って晴れ晴れとした心持ちを絵にしているのだろうか。そう見えたらいいと思う景色を描いているんじゃないかな。見たいものしか見たくないし、聞きたいことしか聞きたくない。それは素直なのか、未熟なのか、傲慢なのか、生きる術という名の護身術なのか、すべてが正しくすべてが間違っている気がする。

 オリンピックのマークをつけた黒いタクシーが走る。動くものにつられて、目で追っていたら、一つの画像がよみがえる。先月、別れ際、「またオレにおごりたくなったらいつでも呼んでくれ」とタクシーに乗り込んだ君島の堂々とした微笑。

あの日の君島は、コートにマフラー、スーツにネクタイ、黒のストレートチップを履いて革のブリーフケースを持っていた。僕の恰好が今日と異なるのはダウンを着ていたことくらい。スーツで会社に行っていた頃は、ジーンズとスニーカーで毎日過ごしている人間が自由で羨ましかった。その立場になってみると、オンとオフのメリハリのある君島を少しだけいいなと感じた。

記憶を巡らすうちに、タクシーに乗る気は失せていた。せっかくだから人気のない昼間の銀座を少し眺めてみよう。僕は晴海通りを築地方面に歩き出した。

 他の誰かを思い出そうとした。誰も浮かばない。君島の前に会ったのは誰だろう。思い出せない。結局君島しか出てこない。

 結婚して子供もいるのに、君島はいつも他に好きな女がいる。浮気をしていることは妻には隠しているけれど、どうせ筒抜けだ。でも、妻が咎める理由もない。合理的な女だから、君島はそう確信している。

「収入の高い男と結婚して、専業主婦で子供を育てる、それが望みの女と結婚したのだ。旦那の浮気は女子会でマウントするための材料だ。妻と結婚したのは美人だから。美人の妻を持つ上司ならそれだけで部下はついていく、妻が美人でなければ部下からはなめられる、出世に必要な条件の一つが美人で手のかからない妻を持つこと。美人な妻を持つと他の女の好奇心をかきたてて、どこに行ってもモテるというおまけもつく。結婚なんてしょせんは契約。妻とはお互いの求める条件が合致した、それだけのこと」

 はいはい、君島、よくわかったよ、僕は女の子を紹介してほしかったのに、キャバクラに連れて行かれて全額払わされただけじゃないか。


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