プロローグ
【アービトラージ(Arbitrage)】同一時刻における、同一商品の、市場間での価格のずれに目をつけ、安い市場で買い高い市場で売ることで利益を上げる金融市場における取引手法。確実に利益を上げることができるが、先に気づいたもの勝ち。日本語では「裁定取引」。省略して「アーブ」ともいう。
2021年春、東京
「ああ、金はあるのに使う場所がない」
銀座の真ん中でそう口にした日からもう一年が経つ。今はまたたくさんの人が当たり前のように歩いている。あのゴーストタウンのような光景を記憶している人はこの中にどれくらいいるのだろう。
京橋を背に中央通りを銀座四丁目の交差点に向かって進む途中で、僕は突然立ち止まり後ろを振り向いた。誰も僕のことなど誰も気にしてはいない。僕の後をつける女の影はどこにもない。
あの日から知り合いとは誰一人会っていない。あの日も今日と同じように、その前に会った知り合いとのことを思い出しながら歩いていた。
僕の生活のすべてとも言える日常の一部は、あの日を境に悪い方向に変わった。因果関係は何もない。あの日があってもなくても、起こるべきことが起きただけ。端から見たら僕の日常はそれまでと何も変わらなかったはず。もし気にかけてくれる人がいたら、明日もまた今日と同じ生活パターンを繰り返すものと容易に予想ができただろう。
どこまで増えるのか心配になるくらいだったお金は、増えるどころか生活費の分だけ減った。それでもこんな毎日を続ける限り、死ぬまで金の心配とは無縁だろう。それは恐怖以外の何物でもなかった。僕はきっと他のことには何の楽しみも見いだせない。結果につながらない努力を、朝から晩まで、来る日も来る日も繰り返すくらいなら、もっと早く死ねばよかった、と後悔する閾値がどの辺りにあるのだろうか。時間軸を思い浮かべてその場所を想像をすることが、せいいっぱいの気分転換だった。結果的に恐怖からは解放された。その後に続いたのは達成感とは程遠い寂寞感。
忘れることは、人間の持つ卓越した能力の一つだとずっと信じてきた。それなのにあの日の出来事の断片が何度もよみがえり、忘れるどころか、頭の中で再構築されて愛おしい記憶として焼き付いてしまった。世の中は激動したはずなのに、僕の周囲では時間だけがあっという間に過ぎた。