旦那さまの記憶
調査結果により証拠を得たレアリナがまずしたことは、最愛の夫であるクレイブの記憶を取り戻すこと。アライドフィード侯爵家とは手紙のやりとりをして、互いの状況を知らせあっていたが、クレイブの記憶はいまだ戻らないらしい。
アライドフィード侯爵であったことさえ忘れている彼は、しかしそれでも責任は感じているのか、日々父である前侯爵に教えを受けながらすこしずつ政務を学んでいるのだとか。記憶を失っていてもからだを動かすことはすきなのか、騎士として、というほどではなくとも筋肉トレーニングや走り込みなどはしているらしい。
ソプラのことやそのこどものことは一応気にかけたりもするらしいのだが、時間をつくって会おうとする様子はないようで、むしろ理由さえあれば会わずに済むことに安堵している様子も見られると聞いている。
レアリナのことはというと、こちらも気にかけてはいるようだが、やはり記憶がないことを気にしてあえて会おうとまではしないようだ。理不尽かもしれないけれど、ちょっとイラっとした。
とはいえ、向こうに会う気がなかろうと、会わなければはなしは進まない。レアリナは義父宛に手紙を出し、クレイブを王城へと呼び出した。
記憶を戻すための魔法がある。それは事実で、レアリナだけでなく義父母もその存在を知っていた。けれどいまのいままでクレイブの記憶をそのままにしていたのはソプラがこどもを連れてきたからにほかならない。
彼女とそのこどもの扱いをどうするか。その方針が決まるまではひとまず様子見をすることにし、それらの調査を行い結果が出たいま、その方針についても纏まったため、クレイブの記憶を戻すことに至れたのだ。
ちなみに、この期間こそがソプラに与えられた猶予期間でもある。
ともかく。その魔法を使ってクレイブの記憶を戻すと考えるのがふつうだろう。三年も戻らなかった記憶。それは実家に帰ってくることができてからも戻る気配のないもので。だからこそもはや魔法に頼るしかない。そう判断するのは当然だ。
けれどレアリナはそれより先に試したいことがあるのだと望んだ。ひとつだけ。たったひとつだけ、この方法を、最愛の夫の記憶を取り戻す糸口として試してみたい。
それはとても不確定で、決して必ずしも結果が出るといえるものではない。確実な方法があるというのに、あえてそんな方法を選ぶなど、王女たれと育ち、それ相応の判断と選択、決断を表情ひとつ変えもせず実行できる彼女らしくない行動だ。
記憶を取り戻す魔法は、無理に記憶を引き出す行為ともなる。そのため、相応の苦痛を伴うと言われていた。後遺症が残るようなものではないにせよ、愛する夫にそのような苦痛を味わわせたくない……などという理由からではない。魔法に頼らずとも記憶を取り戻すに至れるほどの、深い愛情を……絆を、レアリナは信じたかったのだ。
らしくはない、と、自分でも思う。そのように育てられてきていないことも重々承知の上だ。だけどレアリナは、どうしたってクレイブに関することになるとこころを動かされてしまう。動かしてしまう。そしてそれをよしと感じている。
もちろん、ただ流されるだけの愚は犯さない。もと王族として、侯爵家の妻として、その責を果たす範囲で私をクレイブに傾けているだけだ。
今回のクレイブの記憶の件も、これで駄目なら魔法を頼るはなしはついている。侯爵家の穴をあけたままにするつもりはない。だから。
懐かしい、フルフェイスの兜。それを軽く撫ぜ、すこしだけ感慨に耽る。
「……我ながら、ずいぶんな乙女思考だな」
「否定は致しません。けれど、これが成されたなら……とても素敵なことだと、私も思いますよ」
すぐそばから、いつになくやわらかな声が返されて、レアリナはちいさく笑った。
ありがとう、と、つぶやくように紡げば、声の主であるシズクは恭しく一礼し、その姿を消す。
あのときとおなじ、いざというときのために手を出しやすい場所に身を潜めに向かったのだろう。
レアリナは顔を上げて前を向き、兜を被る。しっかりとした足取りで一歩一歩進む先は、騎士団の鍛錬場。あのときとおなじ場所。そして、あのときとおなじように立ち合いを頼んだ、騎士団長。
ほかのものには姿が見えない程度に離れてもらって、この場にはもうひとりしか存在しない。
クレイブ・アライドフィード。
あのときよりおとなびて、けれど行方知れずとなっていた三年のせいか、目に見えて筋力は落ちている体躯となった彼は、レアリナの記憶にある姿と違い、どこか草臥れても見えた。ぱさつき伸びていた髪は、鮮やかな色を取り戻しきれいに整えられ、肌艶もさほど悪くなさそうに見える。造形だけなら整った姿を取り戻したクレイブは、けれど中身が伴っていないとありありと表すほどに覇気がない。背筋も伸びているのに、凛とした空気は感じないし、目の下の隈もはっきりと見てとれた。
それなりの体裁は整っている。けれどレアリナからすれば、痛々しいまでの変わりようだった。
兜で見えないからと、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「頼みを聞いてもらえて感謝する。どうかよろしく頼む」
ひとつ溜息を吐きそうになるのを呑み込んで、あのときとおなじことばを投げかけた。そのことばを受けた彼は、緩慢にさえ見える動作で俯き加減だった顔を上げ、息を吐く。
「……申しわけないが、いまの俺にあなたが望む結果を与えられるとは思えない」
ぴくり、と、思わず眉が跳ねる。彼らしくはない返答に、それでもまだ諦めるときではないとレアリナは自身に言い聞かせた。
「構わないさ。……ただの自己満足だからね」
あえて低く紡ぐことばに、自嘲が乗ってしまい一度目を閉じる。気持ちを改めて剣を構えれば、対峙するクレイブはどこか諦めたように再び息を吐いてから剣を構えた。
構えは彼のもの。とはいえ、騎士団で学ぶそれなのだから、特徴的なものでもない。だからこそ放たれる気迫がまったく足りないことが悲しい。
これではもう、打ち合う前から結果が出てしまっているようなもの。記憶がなくともせめてどこかに培ってきた芯くらいは残っていないだろうかと、そんな期待が崩されていく。
泣きたくなる思いが込み上げてくるが、それでもこれはレアリナが言い出したわがままだ。せめてできるだけあのときを再現できればと、先手を打ちに行く。
下段からの斬り上げは、あのとき同様防がれた。けれどその力も、流しかたも、およそレアリナの知るクレイブには遠くて。
三年。調査によればひと目から隠すように押し込められていたクレイブは、それでも村人に見られない範囲で畑仕事などはしていたようだが、当然それだけでは騎士として続けていた鍛錬には遠く及ばない。時間を見繕っては腕を磨くことをやめなかったレアリナとの差など歴然だ。
それでも長年培ってきたものがすべて台無しとなるわけではないのだろう。からだが覚えている、とばかりの動きを見せられれば、そのたびにレアリナのこころはすこしだけ跳ねた。
けれど、それだけ。結局、それだけなのだ。それだけで負けるほど、レアリナは弱くはない。
できるだけあのときの再現を求めたから、レアリナが手を抜いてなんとか打ち込ませたり、こちらの攻撃を払わせたりしていたが、これでは無理だろう。
このまま彼に負けることができないとは言わない。……あのときとおなじ手を打てば、あのときとは違い怪我をさせてしまう恐れがあるので手を変えねばならないだろうが、もはやそれに納得がいかないわけではないし、レアリナの矜持としてわざと負けたくないというわけでもない。
レアリナは最愛の夫が自分であれ他者であれ、だれかに負けるところなど見たくはなかった。けれどそれ以上に。
譲られた勝利を得る姿など、見たくないのだ。
諦めはついた。ひとつ、ひとつと打ち合うたびに、これではもう成せないのだと思い知らされた。
あのときの再現で、彼がレアリナを見初めてくれたあのときに立ち戻れば、彼は自然と記憶を取り戻してくれるのではないか。レアリナを、思い出してくれるのではないか。
そんな淡い願いを抱いたのだけれど、それはもう、叶いそうにない。
魔法などではなく絆を信じたかった、なんて、ずいぶんな乙女思考。およそレアリナに似つかわしくないそれを、シズクも、兄も、義両親もほかの身内も決して笑わなかった。義両親など、むしろ涙を浮かべて是非とさえ言ってくれた。
これで駄目だったからと、絆がなかったのだなんて言わない。彼を想う気持ちが薄れることだってない。……だから、いいのだ。
魔法に頼ることになったとしても、彼は戻ってくる。それがわかっているから、もう、いい。
レアリナは地を蹴り踏み込み、常のクレイブなら考えられない、隙だらけだった腹部に思いきり蹴りを叩き込んだ。
絞り出すような苦鳴に低く呻いて軽く吹き飛ぶ彼を見て、くしゃりと顔が歪んだのは自覚できた。できたからこそ、それは兜の中に捨ておいて、取り繕った表情に変えてから兜を脱ぐ。
いつの間にかそばまで来ていたシズクがタオルを差し出してくれたので、兜を預けてそれを受け取った。……これは、あのときとおなじだな、などと遠く思いながら。
「……ありがとう、シズク」
「いいえ」
シズクは主であるはずのレアリナに容赦がない。それは決して立場を越える意味は持たないが、けれど確かな繋がりがそこにある。だからこそ彼女はレアリナの絶対なる腹心であり、彼女にとってレアリナはだれよりも大事な主なのだ。
毅然とした態度を崩さず、いつだって表情を消して傍らにあるシズクが、短いひとことを返したあとにすこしだけきゅっとくちびるを噛みしめたことに気づき、レアリナは思わず泣きそうになる。けれどここでレアリナが泣いてどうなるというのだ。彼女はただ自らのこころのままのわがままをとおし、けれどそれが果たされなかっただけのこと。
わがままがとおらないと癇癪を起こしていい年齢など、とうの昔に過ぎ去った。
ちいさなほほえみにすべてを隠し、軽く汗を拭ったタオルをシズクへと返す。そうしてから吹き飛ばしてしまったクレイブのもとまで歩みゆく。彼は上体こそ起こしていたものの、どこか茫然とどこともない場所を見つめていた。
記憶がなかろうと、女性に蹴り飛ばされたことにショックでも受けているのだろうか。まあでもそれは仕方ない。ショックだったなら、記憶を取り戻してからしっかりとまた鍛錬を積んでいけばいいのだから。
そう思いながら彼に手を差し出す。これはあのときと逆だな、なんて。すこしだけ自虐的に思いながら。
「立てるかい?」
なんと声をかけるべきかは、正直悩んだ。もっとこう、相応しいことばがあったのではなかろうか。そうも思ったけれど、結局なにを言えばいいかわからなくて簡易なことばしか選べなかったレアリナの手を、そして彼女自身を見上げて、クレイブの翡翠の双眸が見開かれていく。
「…………れ、あ……」
「…………え? あ、わっ!」
ちいさな声で紡がれたそれが、確かに自分を示すものに思えて。思わず目を見開いたレアリナの手が、思いがけない強い力で引っ張られた。おかげでうまく踏み止まることもできずにクレイブの上に倒れ込む。
「レア、レア、レア……!」
ぎゅうぎゅうと。痛いほどのちからで抱きしめられながら、耳もとを掠れた声音が紡ぐ自分の名が何度も打つ。ただひたすらに何度も何度もレアとばかり呼ばれれば、それが気のせいのはずなんてないことは明らかで。
レアリナは、震える手を、まるで縋るように、クレイブの背に回した。
「……クレ、イブ……。記憶、が……」
期待と不安。希望と、恐怖。震える声で絞り出すレアリナの肩口で、何度も何度もクレイブが首肯する。
「ああ、ああ。すまない、ほんとうにすまない……! よりにもよって、あなたを、レアを忘れるなんて……っ。俺は、俺はなんてことを……!」
罪悪感と悔恨。苦しそうなクレイブの声に、レアリナのからだからちからが抜けた。
確かに期待した。希望をもって、このときに臨んだ。難しいとわかっていて、それなのに成しえないと思ったときには絶望さえした。けれど。
けれどこうして、希望が結ばれたいま。なにもかもが吹き飛んで、ただただ安堵が胸を占める。
ぽろり、と。ひと前であることさえ顧みる余裕もなく、ついにレアリナの目から涙が溢れ出た。
「クレイブ、クレイブ。……さみしかった、怖かった……! あなたがいなくなった日から、ずっと! ずっとずっと、さみしかった。さみしかったよぉ……!」
レアリナを知るものからすれば、彼女が泣くことさえ意外だろう。彼女の涙など、それこそ兄や実の両親だって古い記憶を手繰らねば思い出せない。知るのは、クレイブとシズクくらい。そんな彼女が声を上げて泣き縋る。さみしかったのだと、ほかには決して見せない弱音を、最愛の夫の名とともに。
三年。帰らぬ夫が、いつかきっと戻ってくると希望を抱いて待ち続けて。けれどそれは希望を抱き続けるには決して短くない期間。周りが次々と諦めていくそんな中で、毅然と揺るぎなく信じ続けると告げていたレアリナは、その実ずっとずっと不安だった。怖かった。さみしかった。
シズクにだけは、何度か弱音を吐いたことだってある。涙を見せたことも。衝動的に暴れたくなって、代わりに発散できるようにと手合わせに付きあってもらったことだって、両手の指では足りないくらい。
そんな彼女の三年が、ようやく報われた。
もう離れないとばかりに強く強く抱きあい、お互いの名を呼びあって涙するふたりを、シズクや騎士団長、遠くから見守っていたエヴィディオやクレイブの両親も、涙を浮かべながら見守り続けているのだった。