招かれざる存在ということ
なんだか思っていたのとは違う。
ソプラがそう感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そもそもアライドフィード侯爵家まで辿り着くのに三年もかかってしまったことも想定外だったりする。まあ、その間レンと呼んでいたあの男性、クレイブが記憶を取り戻すことがなかっただけ僥倖ではあるのだが。
ソプラの予定では、侯爵家側はクレイブを見つけて連れてきたことを感謝して、盛大にお礼をしてくれるはずだった。そのお礼のひとつとして妻の座を確実に狙えるよう、こどもまで用意したというのに、アライドフィード侯爵家ではだれもがあまり歓迎しているような態度を見せなかったのだ。
ここに辿り着くまでに、クレイブにはすでに妻がいることは聞いていた。どうやら夫婦仲はかなり良好だったようで、こどももひとりいるとも聞いた。ただそのこどもは女の子らしいので、ソプラは我が子が男の子であることにとても安堵したものだ。
妻子がいる、と聞いたクレイブは記憶こそ戻らなかったものの、ひどく顔色を悪くしていた。そんな彼や彼の妻子を思うとすこしばかり良心の呵責に苛まれたが、それでももうあとには退けない。彼にもあとに退かせないため、こどもをつくったのだ。妻子には悪いが、その座は渡してもらう。
貴族の女性なんて、どうせ碌なひとなどいない。平民を人間とも思わず虐げ、身勝手に陥れるそんな存在に、遠慮などする気はなかった。それを言ってしまえば貴族男性にもいい印象などかけらもないが、だからこそ利用するにはちょうどいい。日頃バカにして、搾取するだけしている平民にすこしくらい貪られたって自業自得だ。
こころの隅に残る良心に蓋をしてそんなふうに強気に挑んだ邂逅で、クレイブの妻だというひとにはちょっと痛いところを突つかれもしたけれど、結局こちらは恩人で、なおかつこどもだって連れている。結局勝ったのはソプラのほう。妻だというひとはひとまず実家に帰ったらしい。
ソプラの知る貴族女性、あの次期男爵の婚約者の令嬢なんて足もとにも及ばないほどに美人で、凛とした女性だった彼女は、けれどなにをはなそうがなにを聞こうが一切表情を変えることなく微笑を浮かべ続ける姿にちょっとだけぞっとした。まるで人形とでも対峙しているようだった、と、いまでも思う。
けれどどうやらそれは貴族としては本来あたりまえのものらしい。侯爵夫人の座を得たいなら、マナーや教養を身につけなさいと言われ、毎日勉強づけにされるようになったソプラは安易に感情を表に出さないことを教え込まれた。
笑うのも怒るのも泣くのも。そういった感情を出してしまえばたちどころに足を掬われる。貴族社会とはそういうものらしい。
ならあの次期男爵の婚約者はどうなのだ。そう思って実際そういう貴族がいるとも訴えたが、公の場ではきっちりと仮面を被ることができるか、よほど程度の低いご令嬢なのでしょうと軽くあしらわれて終わってしまう。
そもそもソプラは貴族夫人としての勉強などする気はなかった。恩人として、また後継ぎの母親として、ちやほやしてくれればそれでよかったのだ。恩人なのだから、煩わしいあれこれから遠ざけて、望むものを与えてくれる。そんな日々を送らせてくれて当然だと思っていた。
だけど実際にはきっちり働かせようとしてくるし、そのやりかたもかなり厳しい。やれないできないは通じなく、それならもっともっと努力しろと詰られる。もとが平民なのだから、貴族の娘たちのようにはいかないと言っても、侯爵夫人がそれでは通らないと返された。乳飲み子の我が子の面倒をみることを言いわけにしても、乳母がいるから必要ないと返される始末。どうやらこどもは母が直接育てるわけではなく、乳母が育てるのは貴族社会ではふつうのことらしい。
そんなのはいやだ、といっても、それなら一刻も早く貴族夫人として恥ずかしくない知識や教養、マナーを身につけ、子に割く時間を捻出してくださいとあしらわれた。
納得がいかないとクレイブに守ってもらおうとしたけれど、彼は彼で、なくなってしまった記憶を補うために勉強中だとのことでまったく会わせてもらえない。
こんな予定ではなかったのに。食事はいいものを出してもらえるけれど、そこでもマナーマナーマナーで、味なんて楽しんでいる余裕などない。いったい、いつになったらあの男爵家や村に仕返しができるようになるのだろうか。
溜息を吐きたくなるが、それをするとまた咎められるので、なんとか内心で飲み込む。そんなソプラのもとに、クレイブの母であり、アライドフィード前侯爵夫人がやってきた。
「……ソプラさん。あなたにお茶会の招待状が届いています」
「お茶会?」
それがなにかは習った。なんでも、貴族の令嬢や婦人たちはそうしたものを開いて優雅に紅茶を飲んだりお菓子を食べたりするらしい。情報のやりとりがどうのとか、奥を探るのがどうのとか聞いたけれど、平民が納めた金でいい気なものだというのがソプラの感想だ。そんなことのために平民は必死に働いているわけではないというのに。
とはいえ、平民感覚としてのそれはそれ。いざ自身が優雅にお茶を飲む立場のほうに回るとなれば、すこしばかりこころが浮足立つ。
「第二王子妃、ユーフィリア・ルツ・ヴィア・ビスタリア殿下からのお誘いです。ごく個人的なものなので、あまり気負わず気軽に参加してよい、とのおことばでしたが、アライドフィード侯爵夫人を希望するあなた宛てとなっています。どうしますか?」
「え? 参加しますよ!」
当然だろう。せっかくの誘いだし、アライドフィード侯爵夫人として呼んでもらっているようなのだからと、ソプラの気持ちが高まる。まだ勉強中の身だからか、それともクレイブと奥さんの離婚がまだ正式に成立していないのか、この邸でソプラをアライドフィード侯爵夫人として扱ってくれるものはいないように感じていた。それでも当然邪険にされるわけではないし、侍女やメイドもついているから、ただの時間の問題のように思っている。
だけど、実際にちゃんと侯爵夫人として扱ってくれるのならそれがうれしくないわけではない。それに王子妃などという権力者に呼んでもらえるなんて、きっとそれだけ自分が特別なのだろうとも思えた。
ここでうまく仲よくなれば、あの次期男爵の婚約者……この三年の間で正式に婚姻を結び、それを機に旦那が男爵位を継いだと、相も変わらずわざわざ傲慢に偉そうに教えられたのでいまや男爵夫人らしいのだが……をさらに貶めてやることもできるだろう。そう思うと楽しみで仕方がなかった。
ちなみに、その報告に訪れて以降、なぜかあまり村を訪れることもなくなったので、村人からの暴力もなくなった。忙しくなったのか、それとも結婚できて落ち着いたのか……ソプラにはわからないが、だからといって彼女たちも村人も決して許すことなどなかったが。
ソプラの復讐の炎はまったく衰えてなどない。その機会を得られるかもしれないと気分が上がってそればかりを考えていたソプラは、だからこそ気づかなかった。わざわざどうするかと選択を委ねられていたその気遣いを。
いくら思うところはあろうとも、息子の命を救ってくれた恩人には違いないからと、ここで身を退くという選択ができる程度には身のほどを弁えていられたなら、ソプラはアライドフィード前侯爵夫人に庇ってもらえたことだろう。まあそれも今回は、という限りではあるが、それでもその手は察してもらえることさえなくあっさりと振りほどかれてしまった。
「……わかりました。ではそのように返事を出しておきましょう。それと、ドレスの手配をします。個人的な場とはいえ、王子妃殿下に招かれたお茶会です。決して粗相のないように」
「ドレス……! わあ、夢みたい!」
「……聞いているのですか、ソプラさん。粗相のないよう、ぎりぎりまでしっかりとマナーを身につけてくださいね」
「あ、はい。わかりました」
おざなりに返事をするソプラに、結果などもはや見えたようなものだろう。アライドフィード前侯爵夫人はレアリナを慕ってやまないユーフィリアを思い、額を押さえるのだった。
結果として。予想どおり散々なものとなったお茶会。
平民出身だということもわかっているし、それも考慮しごく個人的なお茶会として開催したユーフィリア主催のそれは、当然のようにレアリナ信者で固められている。ごく個人的な、としただけあって、レアリナ信者のなかでもより一層熱意が強く、そしてユーフィリアと仲のよいものを厳選して招いたメンバーは、次期伯爵夫人エア、次期侯爵夫人フィリン、次期公爵ミランダの三人。
多少の緊張は見せながらも、それでもそんな面々に臆することなく堂々現れたソプラは、フリルやリボンの多い薄桃色のドレス姿。年若いご令嬢ならともかく……年齢だけならまだぎりぎりそれでも許されるだろうが、アライドフィード家は代替わりをしている。侯爵夫人となるつもりならばさすがに少女趣味過ぎて失笑を買うそのドレスは、クレイブの色さえ見当たらない。
時間を理由にオートクチュールにはできなかったが、そもそもそんな知識もないソプラにはドレスというだけで充分。前夫人にいろいろくち出しをされたが、あれこれと一歩も引かずに見せたら希望がとおったのだ。せっかくのはじめてのドレスであれば、やはり自分の好みのものを着たい。女の子らしい要望には、貴族らしさは一切なかった。
失笑を買おうが気づかないソプラは、マナーに関してもうるさく言われないがためにやりたい放題。侯爵家ではあれはダメ、これはダメ、それは違う、これも違うと駄目出しばかりをされて窮屈極まりなく過ごしていたが、外に出たらこんなにもなにも言われないではないかと、最初だけ警戒していたソプラの気が大きくなるまでさほど時間を要さなかった。
「まあ、ではマナー講師のかたは食器同士で音を立ててはならないとおっしゃったのね?」
「そうなんですよ! お皿の上にコップを置いたり、フォークで食べものを刺したりすれば音くらい鳴っちゃいますよね? それなのにいちいちうるさく言って……。ここではそんなふうに言われないから気楽でうれしいです。やっとおいしいものを食べられている感じが持てました!」
「そうですの。ところで食べものをくちに入れながらはなしをしなければならないくらい、日々は忙しいものでしたの?」
「あ、さすがにこれは良くないですよね……。すみません。でも確かに、パンをくわえながら仕事に向かったりとかしてました。時間短縮です!」
にこにこにこにこ。みんな笑顔でいやな顔ひとつしないではなしを聞いてくれる。いいひとたちだなあ、なんてのんきに思っていられているのは当然ソプラひとり。
おいしいお菓子と紅茶に舌鼓を打ち、ソプラが紅茶のお代わりを要求したそのとき。しばらくただ無言で流れを見守っていたユーフィリアがおもむろにくちを開いた。
「ねえ、あなた。アライドフィード侯爵夫人になることを希望しているというのは本気なのかしら?」
「え……?」
「あなたの様子、しばらく見させていただいたけれど、とてもではないけれど、侯爵夫人……いいえ、貴族の夫人には向かなくてよ」
「そ、そんな……いきなりどうしてそんな意地悪なこと言うんですか?」
「あら。事実を事実として伝えることは意地の悪いことになりまして? いくらこの場がわたくし個人で設けたものといっても、きちんとお茶会として開いておりますの。気楽に、というのはマナーを欠いていいという意味ではもちろんありませんわ。聞けば侯爵家ではきちんとマナー教育も施している様子。進捗具合はわかりかねますけれど、注意を受けたということさえ直されていませんわよね?」
「で、でもそれは……わたし、平民だったから」
「まあ。それは覚悟の上でしょう? ほかでもない、あなた自身が侯爵夫人の座を望んだと聞いておりますわ。でしたらその選択による責任もきちんと果たしませんと。もちろん王族もですけれど、貴族とて民の税の上に胡坐をかいていればいいだけの存在ではありませんわ。侯爵夫人としての責務も果たせないようなかたがその座につくことになんの意味や価値がありましょう? レアリナ夫人は自ら率先して領地のための執政も交渉も行い、情報収集に余念がなく、もちろん女主人としての手も抜くことなく、さらには慈善活動にも力を入れてらっしゃいました。あなたは? なにをして、なにができるのです?」
「そんな……もともと貴族だったひとと比べられても……」
「おもしろいことを言うのね。あなたはあのかたからあのかたの場所を奪おうというのですよ? 比べられるなど当然でしょう? それとも平民の中では、後妻などに入った際、前妻のかたとは一切比べられないのでしょうか?」
「それは……」
「まあ、ある程度の事情は考慮されましょう。ですがあなたは、ご自分で選ばれた。身の丈にあった褒賞として金銭を要求することも、それに準ずるなにかしらの品を要求することも、仕事や名誉などを得ることもできたでしょう。それを選ばずに、アライドフィード侯爵夫人の座を願ったのはほかでもないあなた自身。であれば、相応の働きを求められるのは当然ではなくて?」
「そ、それはそうかもしれませんけど……。でもさすがにまだそこまでは」
「ええ、そうでしょう。ですが覚悟と認識が足りていないのは事実ではありませんの? 注意を受けたことを活かしていないどころか、活かす気も見せないあなたが、いったいいつになったら侯爵夫人として相応しくなれるのかしら?」
「それなら! それなら、わたし、こどもを産んでます! 男の子です! 後継ぎです!」
一方的に責められ、身に覚えのあることでもあるからうまくこたえることもできずにしどろもどろになってしまっていたソプラが、ようやく光明を見出す。平民にもそういうところはあるが、貴族では一層その傾向が強いだろう、妻は後継ぎを残すことこそが最大の務めという風潮。ここぞとばかりに身を乗り出して主張するソプラに、つとユーフィリアの双眸が細められる。
「なにを言っているのかしら? アライドフィード侯爵家の後継者は、レアリナ夫人の御子に決まっているではありませんか」
「……え? だって、その子は女の子だって……」
「あらあらまあまあ。まだそこまで勉強がはかどってないのかしら? だとしても、さきほど自己紹介をしたというのに聞いていなかったのかしら?」
ちらりとユーフィリアの視線がミランダへと向けられる。心得たとばかりにちいさく頷いた彼女は、ソプラへと貴族らしい美しい笑みを向けた。
「ミランダ・レイ・ヴィア・ユグストフと申します。ユグストフ公爵家の長女であり、次期公爵となる予定ですわ」
「こう、しゃく……? 夫人ではなくて……?」
「まあ、なんと無礼な!」
さすがに、というよりもこうなることくらいは想定していたからだろう、多少演技がかったもの言いになりながらも、きっぱりと責める口調でフィリンが声を張る。すこし前までほのぼのとした空気だったからこそ、その変貌にびくりとソプラの肩が揺れた。
「落ち着いて、フィリン。興味のない、関係のない平民からすれば知らなくても当然なのかもしれませんわ」
やわらかにそう窘めたあと、ユーフィリアが再びくちを開く。
「最近になって、法の改正が行われましたのよ。いまは、家督を継ぐことができるのは必ずしも男児でなければならないということはありませんの。おわかり? あなたの子など、後継ぎにはなり得ませんわ」
きっぱりはっきり告げるけれど、それはあくまでリリアになにもなければ、のはなしでもある。まあ、あえてそこまで言う必要はないし、おそらくアライドフィード侯爵家としてもソプラの子を後継ぎにしようとは考えてなどいないだろう。
クレイブの子である確証の問題ではなく、その子ができた経緯の問題だ。クレイブの承諾も必要となるだろうが、たとえこのまま彼女らがアライドフィード侯爵家に居座ろうとも、次期当主は親類から養子を迎えることにでもなるはず。
さすがにこればかりは完全に想定外だったのか、ソプラが絶望に青褪める。そんな彼女に、けれどユーフィリアが向けるまなざしはどこまでも冷たいものだ。もちろん、ほかの三人にしてもそれは同様。
「ひとつ教えておきますけれど。わたくしたち、レアリナ夫人ととても懇意にさせていただいておりますの。わたくしたちだけではありませんわ。レアリナ夫人をとっても慕っているかたって、貴族の中にも平民の中にも多くいますわ。……あなた、ご自分の選択をよくよく考えたほうがよろしくてよ」
レアリナを慕うものが多い。それはもちろん、ソプラにとって悪影響にしかならない。その筆頭が王子妃などとなれば、貴族社会にソプラの味方となってくれるものなど存在しないだろう。
それどころか、レアリナを追い出したかたちとなっているソプラに対し、いい感情など決して抱かれているはずがない。なにもない、なにも持っていないソプラは、敵だらけのこの場所で、どう生きていくつもりでいたのか見えなくなってしまっていた。とてもではないが、男爵家や村のひとたちに復讐するなどと言っていられない。
頼みの綱のこどもも、役に立たないと思い知らされた。
目の前が真っ暗になったソプラは、そのあとどうやって侯爵家まで戻ってきたか、記憶がなかった。