旦那さまのお帰りです
「なるほど。クレイブ様の妻の座を、そしてアライドフィード侯爵夫人の座を望む、と。それがあなたのご希望ですのね?」
凛と響く、平坦な声。特段なんの感情も乗せていないその声を、涼やかに浮かべた笑みを一切崩すこともなく放つのは、麗しの美貌の女性。青銀の艶やかな長い髪と、やや切れ長の深い海色の双眸。彼女の名はレアリナ・リ・ヴィア・アライドフィード。若くしてアライドフィード侯爵を継いだ夫を支える、侯爵夫人の立場にこそ彼女は立っている。
その彼女が現在いるのはアライドフィード侯爵家の応接室のひとつ。座するソファの隣には前アライドフィード侯爵夫人、奥のひとりがけのソファに座り眉根を寄せて終始難しい表情を浮かべ続けているのはアライドフィード前侯爵だ。
そしてレアリナたちの、テーブルを挟んだ正面のソファには若き男女がひと組。顔を伏せて縮こまるアライドフィード前侯爵とおなじ緋色の髪を持つ男性。そしてその傍らに、彼とは対照的に堂々と背筋を伸ばして座る女性。所在なさそうな様子の男性とは違い、大きなオレンジ色の双眸をきらきらと輝かせて満面の笑みを浮かべる女性は、ひたすらに堂々とレアリナを見つめる。
ふわふわとしたはちみつ色の髪はすこし傷んでいるようだが、それでも彼女の愛らしさを損なわせない。それは彼女が着ている、ややくたびれたワンピースも同様だ。素でこれなら、磨けばさぞ愛らしい美少女然とすることだろう。
彼女はレアリナの問いかけ……確認に、一切迷うことなくはっきりと頷いた。
「はい! だってわたし、後継ぎを産みましたから! レン……いえ、クレイブの奥さんには、愛しあっていて、しかも後継ぎも産んだわたしこそがなるべきだと思うんです!」
きっぱり。さも当然とばかりの主張を繰り返され、レアリナはすぐ隣から殺気が放たれてくるのを確かに感じた。
ことのはじまりは三年前。当時まだ新婚ではありながらも、結婚後すぐに侯爵位を継いだレアリナの夫クレイブは、引き継ぎの関係で領地に向かう用があり、レアリナを王都に残し単身領地へと向かった。
まあ、運が悪かったといえば悪かったのだろう。そしてその不運が、あのときに限ってこれでもかと重なってしまった。
まず、結婚前からレアリナを溺愛していたクレイブは、とにかくレアリナとできうる限り離れたくなかったがために、もっとも早く領地との往復が可能な単騎という移動手段をとった。もともと王太子付きの護衛騎士にして王国最強の誉高いクレイブだ。身の安全に関しては心配ないだろうと、これに対する反対意見も特段出なかった。レアリナとともにゆっくり馬車で向かうという選択もあるにはあったが、その件では長期滞在の予定もなかったし、アライドフィード侯爵邸での生活に早く慣れるためにもレアリナは王都に残ることになったのだ。
そんなわけで単身領地を目指すことになったクレイブは、身軽であることをいいことに、整備された街道ではなく、一直線に抜けられる森を突っ切ることにしたらしい。獣道のようなものしかなかろうと、それでも彼としては割と慣れた道ではあった。だからこそ選んだ道だったのだが、運がなかったのはすこし前に降り続いた雨によりぬかるんだそこに馬が足をとられてしまったことだろう。そしてその場所に限って崖際で、馬に振り落とされたクレイブはそのまま崖下の川に落ちてしまった。
振り落とされた、というよりも、せめて愛馬だけはと持ち前の身体能力を活かして馬まで落ちない体捌きを見せたのかもしれないが、実際のところは知る由もない。賢い馬なので、王都近くまで自力で戻ってきたところを無事保護され、いまはアライドフィード侯爵邸の厩でくつろいでいる。
とにかく、領地についた連絡もないところに馬だけ戻ってくればそれは捜索が開始されるわけで。アライドフィード侯爵家の関係はもちろん、王家や、それにちょっとした……ではすまない有志たちによりそれはもう大規模に捜索されたのだが、クレイブの発見には至れなかった。レアリナが居場所を把握できるようにと安全のために渡していた魔道具も、崖から落ちたときにか川に流されたときにか引き離されてしまったようで、遥か下流からそれだけが見つかったときには生存も絶望視されていた。
あとから思えば回避できる要素など山のようにある事故だが、起きてしまってからなにを言おうがたらればでしかない。かなり大規模に捜索されたにも関わらず発見に至れないクレイブは、多くがもはや亡くなったとみていた。けれどレアリナは決して諦めず、侯爵夫人として、また侯爵の代理として義父や義母のちからを借りながら仕事をしつつ、規模こそかなり縮小したが、川沿いを中心にずっと捜索活動を続けてきた。
そんな生活を三年だ。周りがなんと言おうと、どう思おうと三年間一切諦めずに続けてきた。クレイブの実の両親でさえ諦めつつある中で、彼女だけは決して諦めることのなかった日々。それが今日、やっと報われた。
……恩人だという女性と、彼女が産んだというこどもを連れて、だが。
どうやら彼女はクレイブが落ちた川の先にある村のひとつの出身らしく、ぼろぼろな姿で川岸に倒れていた彼を拾い、看病してくれたらしい。ひどい怪我と高い熱で何日も生死を彷徨っていたとは彼女の談。そして熱が原因か、やっと目が覚めたときには彼はなにひとつ……それこそ自分のなまえさえも忘れてしまっていたのだという。
当時を思い出してか涙ながらにそう語った彼女に、レアリナは問う。その村にも捜索の手は及んでいたはずだが、と。それに彼女は悲しそうに目を伏せた。
「……わたしの家、村八分にされていて……。食料も薬も、自分たちの自給自足で賄っていたくらいなんです。騎士様たちが彼を探していたとしても、たぶん、村のひとたちはわたしの家のことなんてはなさなかったのだと思います。存在しないものと扱われていましたから……」
なんとか薬にできる植物を知っていたから、クレイブを助けることができた。それだけはよかったと涙ながらに語る彼女に、おなじ熱量を向ける存在はあいにくここにはひとりもいない。部屋の隅に控える侍女たちも含めて、だ。
彼女は父親とふたり暮らしらしく、村からは外れた場所に家があるらしい。そのせいで騎士も見落としたのだろうと彼女は言う。レアリナの微笑は一切揺らがない。
「なるほど。我が家の騎士たち、あるいは王家から派遣していただいた騎士たちに手抜かりがあったと」
「そ、そんな……! 騎士様に落ち度なんてきっとありません! 村のひとたちが意地悪をするから悪いんです!」
「ところであなた、その村には一切出向かないのかしら?」
「え……?」
「旦那さまの捜索のために、絵師に頼んでたくさんの捜索願を描いていただいたし、それを王国内のいたるところに貼らせてももらいましたわ。それを一切目になさらなかったの? それに、三年もあったのに、旦那さまのお姿を村のかたが目にする機会は一度もなかったのかしら?」
「わ、わたし、そんなの一度も目にしていません! 知っていたら、もっと早くお知らせしました! それに、レンだって、わたしの家で療養しているなんて知れたら、村のひとたちにどんな仕打ちをされるか……!」
レン、とは、なまえもわからないというクレイブに彼女が与えたなまえらしい。ほんとうのなまえを知ったいま、クレイブと呼ぼうとする姿も見受けられるが、とっさのときに呼び慣れた名が出てくるのは仕方ないだろう。
「ああ、ごめんなさいね。すこし気になってしまって。旦那さまの命の恩人を責めるような真似をするつもりはありませんでしたの」
「い、いえ……」
「それで、旦那さまを救ってくださった恩人であるあなたには、なにかお礼を差し上げたいと思うのですけれど、ご希望はあって?」
さらなる追撃をかけることもなく、一切揺るがない微笑を湛えたまま問うレアリナに、この問いを待っていましたとばかりに、女性は満面の笑みを浮かべて顔を上げる。
内容の転換に思うことはないのだろうか。疑うどころか、さっきまでの庇護欲を誘おうとするかのような態度もあっさりと脱ぎ捨てた様子。そんな変わり身の早さに、それでもレアリナの表情は一切変わらない。
「わたし、彼と愛しあっているんです! こどもだっているんですよ! 男の子です! 彼の血を引いているから、後継ぎになるんですよね? だから、わたしを彼の奥さんにしてください!」
確かに彼女はこどもも連れてきた。まだ乳飲み子のその子は、込み入ったはなしになるだろうからと侍女に預けてあるが、なるほど、そうきたか。
「クレイブ……あなたまさか……」
ショックを受けたような震える声音を絞り出す前侯爵夫人を、レアリナは軽く手を挙げて制す。当の本人であるクレイブは、この家を訪ねてきてからずっとうつむいたまま身をちいさく縮めていた。
彼の記憶はまだ戻っていないらしい。だからというべきか、いままで一度だって見たことがなかったと言っていた貼り紙にいまになって気づいた女性が、クレイブのほんとうの身分を知ったがために今日こうしてここを訪ねてきたのだという。まったく、都合のいいはなしだ。
「なるほど。クレイブ様の妻の座を、そしてアライドフィード侯爵夫人の座を望む、と。それがあなたのご希望ですのね?」
確認のため、もう一度。それが彼女の意思で、選択なのだと知らしめるために。決して揺らがない笑みをそのまま問うレアリナに、けれどどうしたって彼女の意思は変わらないようだ。
ならばあとは自己責任で。
「わかりました。……ではアライドフィード前侯爵夫人。あとはお任せします」
最後にそう言い置いて、レアリナはだれのことばを待つこともせず部屋をあとにする。そうして扉のすぐ外で待機していた、昔から自分付きの侍女を務めてくれているシズクを伴い歩を進めながらくちを開いた。
「とりあえず帰ろうか。あの子を頼むよ」
「はい。全員引き上げますか?」
「いや。たかが一時帰宅だ。シズクだけでいい」
「かしこまりました」
自室へと向かいながら、レアリナは三年ぶりに見た夫の姿を思い出す。あんなふうに縮こまる姿など、見たことがなかった。それに、せっかく再び会えたのに、一度だって目があうことも、ことばを交わすこともなかったのだ。
「……やれやれ。ずいぶん手を焼かせてくれるじゃないか、クレイブ」
溜息混じりにつぶやいたレアリナが、すこし寂しそうに目を伏せたことを知るのは、彼女の大事な腹心たるシズクただひとりだった。