VS美恋 2
「ほ、ほら! 美恋先輩勝てそうですよ!」
第二打席の成り行きを見ていた後輩たちがはしゃぐ。その隣の夏芽は堅い表情のままだ。
「美恋が勝つためにはヒットを打たなくちゃいけない。粘ってるだけじゃ、一向にファールだけだよ」
「甘い球を待てばいいんじゃないですか?」
「そう何球も甘い球はこないと思う。美恋はようやく対等になれただけ。ここからが読み合いの勝負だよ」
ヒットを打つ、そのためには颯の配球を読み打っていくしかない。だがそれは粘り打ちとは違うタイミングでバットを振ることになる。夏芽の言うように、第三打席は読み合いの勝負となっているのだった。
バッターボックスに立つ美恋。不思議と力が抜けて、心臓の鼓動がゆっくりと動いているのがわかった。
体は熱いが視界が澄み切っているように見えた。
一球目。颯が投げる球は低く、やはり投げミスの期待は大きくないものだとわかる。それでも美恋はファーストストライクから狙っていった。
美恋は低めのストレートだと感じていたが、その球は深く沈んだ。ストライクゾーンから大きく外れたフォークであった。
見逃されていればボールだっただけに、思い切った初球だった。結果としては空振り。颯は狙い通りのカウントを取った。打ち気になった美恋を躱す、まさに颯の読み勝ちだ。
美恋はワンストライクを取られようとも、毅然としていた。バットをすぐに構え、次の球を待つ。
二球目も同じような球。だが少しだけ先程よりも高い。だが美恋は平然とその球を見逃した。その球はフォークで、判定はボールだ。決して変化が甘かったわけでも、スピードが落ちていた訳でもない。美恋自身もその球はストレートのようには見えていた。しかし見逃したのは美恋がフォークだと読んだからだ。
並のバッターならワンストライクを取られ、焦り、少し浮いていた二球目の球は振っていってしまうだろう。颯は焦るであろう美恋の空振りを狙おうとした。しかし美恋はその考えを見破ってみせた。
カウントはワンストライク、ワンボール。次のカウントがどちらに入るかで、形勢は大きく変わる。
それを両者は理解しながらの三球目。また低めの球だ。
美恋は再びその球を見逃した。またもフォークで判定はボール。美恋の体を前に出していることから、ぎりぎりの判断で見逃したのだろうとわかる。
「よしっ、初めての有利カウント!」
後輩がガッツポーズをする。ボール先行のカウントはバッター有利となる。投手はスリーボール、果てにはフォアボールを出したくはないというが基本的な心理だ。だからこそストライクを取っていかなければならない。そう、勝負をせざるを得ない状況になっているのだ。
美恋と颯の表情は変わっていない。だが美恋は取ってくるであろうストライクの球を必ず打つと燃えている。
内角か、外角か。ストレートかカットボールか。
四球目の球が放たれた。同じく低め。内角寄りの球を美恋は渾身のスイングで当てようとする。誰もが長打を予感した時、響いた音は球がグローブに収まる音だった。
四球連続のフォーク。美恋はまたも空振りとなった。
「……信じらんない」
見逃していればスリーボールだ。今度こそ颯は追い詰められてしまう。にも関わらずフォークを投げるという胆力に美恋は呆然とした。
カウントはツーストライク、ツーボール。美恋が追い詰められてはいるが、颯もストライクゾーンで勝負してくるかもしれない。だがそれを読んだ上でのフォークボールもまたありうる。
美恋はバットを短く持って構えた。五球目は一転して高め。真っ直ぐに伸びてくる球は、以前まで投げられていた低めよりも打ちどころのように思える。美恋は少しバットを出しながらも、踏みとどまった。判定はボール。振っていればフライになってしまっていた高さだ。低めを意識していたからこそ、高めの感覚が曖昧になっており、美恋が振ってくることを期待した球だった。
だが美恋がバットを抑えたことによって、カウントはフルカウントになる。明らかなボール球は見逃されフォアボール、アウトにしようと思うならストライクゾーンを狙っていく必要がある。まさしく勝負の場面だ。
美恋は思考を走らせる。颯を打ち倒すなら、この状況を逃してはいけない。
颯の球は衰えてはいないが、仮にフォアボールを出した時、またやり直すことになる。それが続けば今の颯では球質は落ちていくことだろう。そうなれば徐々に美恋が有利になっていく。
同時に颯が出してきたシチェーションを考える。仮に美恋がフォアボールで塁に出たのなら満塁の場面で涼音と対戦することになる。長打が期待できる涼音のことだ、同点のみならず勝ち越しも視野に入るだろう。その状況を颯は望むだろうか?
ならばこそ颯は美恋と勝負を臨むはずだ。ここでチャンスを潰したがる。そう読んだ美恋は低めのストレートに狙いを絞る。
颯が大きな呼吸をして、モーションに入った。
やはり球は低い。美恋は完全にその球を目で捉えている。球速もコースも、何もかもバットの芯で捉えられる。そう確信して振るバットは、風を切り裂くようだった。
当たる、美恋がそう思った直後のこと。
球は手元から消え、バットは何も手応えを感じなかった。フォークだ。フォアボールが有り得る状況でさえもフォークを投げてきた。
「何で……」
空振り三振。第三打席もアウト。結果として美恋は敗北した。
美恋は力を無くしたように、地面に座り込んだ。目は虚ろげに揺れている。そんな美恋に颯が近づいてきた。
「惜しかったな」
「……惜しくなんか無い。惨敗よ。フォークを投げるなんて、考えもしなかった……」
「いいや、お前がストレートに絞ったのは試合の状況を考えたからだろ。『相手が勝負せざるを得ない展開に持っていく。ただし、試合の状況や打者による』。お前は一つ先の読みができていたんだ」
「立川くん。何でフォークを投げたのか私は聞きたいな」
キャッチャーマスクを外しながら、涼音が問いてくる。
「……美恋がバットに当てる技術は中々だ。ストライクゾーンに安易に投げていれば、ヒットになっていた可能性が高かった」
「それであんな逃げ腰配球だったんだね。ボールばっかで取るのしんどかったよ」
「外野の前に飛んだとしても、美恋が打席に立ってチャンスの場面ということは、二塁ランナーは杏のように俊足で、本塁に到達されるかもしれない。そうすれば同点になった上にチャンスは続いて涼音との対戦だ。状況としては最悪の場面と言っていい」
「でも私を四球で歩かせてもいいって思ったから、フォークを投げたんでしょ」
「俺の持ち球はフォークだ。涼音みたいなフリースインガーならフォークを投げればあっさりと三振を取れるかもしれない。少なくとも、美恋よりも涼音と対戦した方がマシだ」
「フリースインガーとは言ってくれるねぇ」
「いずれにしてもお前の負けだ」
美恋は口を結んで、自分の脚に爪を立てた。何も言い返すことはないが、震える体が美恋の悔しさを表している。
颯はしゃがんで、美恋と視線を合わす。
「お前の想いはわからないでもない。俺が指導して、あっさりと勝ってしまえば、自分たちの二年の努力が何だったのか、って気持ちになるんだろ。時間と労力が突然裏切られた気がしちまう」
「ッ……」
「だが貰える教えは乞うべきだ。単なる教え一つでも、野球は変わるんだ」
美恋がノートの一文を見て、粘るバッティングを意識できるようになったように。
「何でも拒むようになったら、俺みたいになっちまうぞ」
少しだけ微笑んだ顔に、柔らかい声で告げる。
自分の強さ、思考だけに頼り、マウンドに立つ颯は孤独だった。そんな自分が打ち砕かれ残ったものは、周囲からの失望と部員からの恨まれる目と一人であるという虚しさだ。颯は、そんな自分のようには誰一人だろうとなって欲しくはなかった。
颯は肩を回しながら、立ち上がる。
「まあお前が俺を否定するのは構わないさ。廃部に追いやった奴を指導者において、部を任せるなんて心配になって当然だ。それに俺は人を指導した経験もあまり無い。大それたことを言い出したならお前が止めてくれ。――そんなとこだ」
颯が全体に練習再開の合図を送る。部員たちが忙しなく動き出した中で、美恋と涼音は未だに座り込んだままだ。
「……何よ、結局は私は見逃して、四球で出るしかないってことじゃない」
「それは違うと思うな」
涼音はにこやかな顔で言う。
「立川くんは私と対戦した方がマシって言ったんだ。多分ピンチで私との対戦だって怖いでしょ。当たったら勝ち越されるのは目に見えてるからねー。……だから美恋は私にチャンスを繋いだだけで、十分に役割をこなしてる」
「涼音……」
「だから大丈夫。美恋は頼りになるし、強いままだよ」
それは悔しさか、涼音の優しさに触れてか、美恋の視界は揺れて、長い睫毛の間から雫が落ちていった。
部活動を終えた頃、部室の前でそわそわとして、部室に入るか、辞めようかという様子の美恋が居た。既に制服姿であり、帰り支度は整っているはずだが、校門に向かうことはなく、影を忙しなく揺らす。
緊張の顔を引き締めて部室の扉へ手をかけようとすると、ちょうど部室から夏芽が顔を出す。
「あっ」
どうやら美恋の目的の人物は夏芽だったようで、視線をこれでもかと逸らす。
「どうかした?」
「ちょっと……話したいことが、あって……」
普段の勝気な態度は消え去り、額に汗を流しながらちらちらと横目で夏芽を見る。
「ふーん、話したいことね」
夏芽が笑顔で美恋に身を近づける。
「二人きりで話そっか」
「こ、怖い……!」
「怖くないよー」
「怖いわよ!」
笑顔の圧が美恋を呑みこむようだった。
グラウンドの倉庫前。石でできた段差に二人は横並びに座り込んだ。人二人分はある距離を開けている。
「で、何かな?」
美恋は両手をこねくり返しながら、もじもじとした様子で口を開く。
「……ごめんなさい。悪かったと思ってるわ」
「何が?」
「あ、アイツが夏芽のことを好きって言ったこと。そんな訳ないのにね。あんな冷淡でイジワルで無愛想な男が、恋愛に興味を持つとは思えないわ」
颯を悪く言う言葉に反応したのか、夏芽は少し頬を膨らませた。
「えっ……違うわよね?」
「そ、そうだね。颯が私のこと、好きなんてありえないよ! 美恋も変な嘘つくもんだね!」
何故か大げさに言う夏芽を不思議に思いながら、美恋は話を続けた。
「部員たちの誤解はもう解いといたわ。一緒に帰っているのはノート作りの打ち合わせや、部の指針を決めるためだったっていう風に。……アイツを否定するために必死になって視界が狭まった。結局、夏芽を巻き込んで、皆の練習する時間を奪った。部をかき乱したのは私の方だったってオチよ。笑っていいわ」
「笑わないよ。颯のことはしっかり事前に話せていなかった私も悪い。一番部を大切にしている美恋は颯に良い感情を持たないってわかるはずだったのにね。もっと美恋に寄り添ってあげれば良かった」
「や、止めて! 今は優しくしないで」
美恋は自分の体に頭を埋めた。目元が夕焼けの光を映すのが夏芽には見えて、夏芽は美恋との距離を詰める。
「な、何よ」
「私の温もりをあげようって思って」
「いらないわよ! っていうか二の腕柔らかいわよ。スイーツの食べ過ぎなんじゃない?」
「い、言わないでよ~。美恋だってお腹ぷにぷにだからね」
「そんなことないわよ! ふにふにくらいよ」
「差があんまりわからないけど……」
夏芽がクスッと笑うと、美恋もつられて笑い出す。すっかり静かになったグラウンドで二人の笑い声が響く。
息が落ち着いた頃、二人は顔を向かい合わせて喋る。
「私、昔の話をしたでしょ」
「男の子の投球を見て憧れたって言う話ね。……まさか」
「うん。その男の子って颯なんだ」
「ええ! あんた達って幼馴染だったわけ!?」
「ふふ、知らなかったでしょ。高校に入って全然私と颯は話さなくなったからね。私も颯も友達数人にしか言ってこなかったから」
「それで呼び捨てって訳ね……。合点がいったわ」
「美恋はまだ会ってちょっとだから、颯は冷淡でイジワルで無愛想っていう印象なんだろうね。傍からはそう見えちゃうかもしれないけど……私は颯って物凄く優しい人だと思う。そして大の野球好き。多分野球が好きな人も好きだから、私たちのことを悪くなんて思ってないよ。女子野球部をしっかりと考えてくれている」
ノートを出して、と夏芽が言い、美恋は鞄から取り出した。
「特に美恋のは時間をかけたなぁ。あ、ここなんて四回も消した跡がある。美恋がしっかりと内容を理解できるように、颯が何度も頭を捻って私に伝えてきたんだ。この守備動作のアドバイスも店の中で自分が動いて確認してた。流石に私も恥ずかしかったなぁ」
「あ、アイツがそんなことを……」
「美恋だけじゃないよ。部の全員分を徹底して作ったんだ。私も何回あくびをしたことか」
美恋が自分の服の袖を握る。
「颯は自分の部を廃部に追いやったのかもしれない。冷淡なのかもしれない。でも、颯は去年から絶対に変わろうとしている。そんな颯を、信じてあげてみてもいいんじゃないかな」
夏芽が美恋にノートを差し出す。美恋は逡巡しながらも、そのノートを手に取った。
「……夏芽」
「何?」
「このノートの内容を、全部取り入れれば私は強くなれるかしら」
「なれると思う。私はそう信じている」
美恋はノートを仕舞い、立ち上がった。
「……決めた。ちょっとだけならアイツのことを信頼してもいい。このノートで、私は絶対に強くなる。強くなって、アイツを見返してやるわ!」
「おおー、それでこそいつもの美恋だ」
美恋は夕日に向かってそう高々に声をあげた。
「あ、そうだ。私だけじゃなく、颯にも謝ること」
「えっ」
「あとアイツ呼ばわり禁止ね。うーん……颯君でいこうか」
「い、いや」
「いやじゃない」
「いや! 絶対いやよ!」
杏のようにぐずる美恋の珍しい様子に、夏芽は笑みをこぼした。