マスターの話
これは僕が通っていたバーのマスターから聞いた話。
ある晩の、ある酒。
僕がお世話になっているバーで飲んでいると、マスターがグラスを磨きながら、
「紋さん、へーさん知ってるよね。へーさん、亡くなってたみたい」
マスターにしては珍しい話に、僕は、はあ、と気のない返事をした。
マスターの言うへーさんというのは、この店にたまに顔を出していた人で、僕も何度か居合わせたことがある。
口をまあるく開けて、大仰に「へー」と言う。表情に品が無い人で、僕はその人と話すのが好きではなかった。とにかくよく煙草を吸う人で、その人がハコにいると、煙たくて仕方がなかった。
マスターと当時、
「紋さん。商売があるって言われても、アレに近付いちゃダメだよ」
何やってる人なんですか?
「チンピラチンピラ」
という会話をした記憶があるくらい。とにかく、僕には関わりのない人物だった。マスターは、空になった僕のグラスにモルトを注いで、
「イヤーな話なんだ、これが」
犯罪ですか。
「そういうんじゃないよ。でも、イヤーな話」
改めて聞く、へーさんの職業。へーさんは自称霊能力者。それも、憑かれる体質の人だったそうだ。当然、僕は信じていない。
へーさんには師匠と呼ぶ人がいて、その人とフィリピンやら台湾やら、東南アジアを回っていた。霊能関係の仕事はそこら辺に多いらしい。本当かどうかは知らない。マスターは、ハッパ関係なんだろうな、と思っていたらしい。僕もそう思う。
で、彼らは仕事に失敗した。
何処かの国で何かの、そのまま信じるなら霊能だか霊障だかの仕事に失敗した。それで、車で逃げた訳なのだけど、へーさんは途中で師匠なる人物に捨てられたのだそうだ。
へーさんの携帯電話はその師匠なる人物が管理していて、料金も全部払ってもらっていた。師匠なる人物はへーさんを車から追い出し、その携帯電話をひったくって、
「俺のことは探すな。俺も、お前のことは忘れる」
そこで初めて、その人がへーさんと一緒にいた理由を聞いたそうだ。
その師匠なる人物がへーさんを連れていたのは、弟子として育てるためではなく、その体質が目的だった。要するに、いざという時にへーさんを避雷針にするためだったらしい。
そんな訳で、へーさんは異国の地にあっさり置き去りにされ、やっとのことで日本に帰ってきた、という顛末。
人間は動物で、習性はそう変わるもんじゃない。だからへーさんは日本に戻ったあとも飲みに出て、この話を色んなバーでしていたのだそうだ。
それから数年経って、へーさんの遺体は自宅のアパートで見付かった。
おかしいのは、その遺体の状態。
少なく見積もっても死後一年。そして、全く腐敗していない状態で見付かったのだそうだ。
腐敗は細菌やら何やらの仕業で、一年間も放置してあったら、普通は腐る。部屋が偶然そういう状態にあったとか、色々可能性は考えられるけど、家の網戸は開いていて、トイレの水は腐っていたらしい。
「それでね、病院に持ってかれる訳じゃない。でも状態がおかしいから、検死に、そっち系の人呼んだらしいのよ」
信憑性は、まあそこそこ。病院はそっち系のコネクションを持っている、というのはたまに聞いた話だったから。
「そしたら、袋開けた途端、これは(体を)開けるの止めましょう、って言ったんだって。だからまあ、そういうことなんだろうね。よく分からないけど、誰かっていうか、何かのモノになっちゃったんだよ」
それはマジなんですか。
「いつ亡くなったかってのと、亡くなった事実は本当だから。でも、分かんないよね」
よく分かりませんね。
そう答えたのだけど、当然、僕は信じていない。でも、僕もマスターも知っている、体験していたことが一つだけある。
へーさんはよく煙草を吸う人で、その人がハコにいると、煙たくて仕方がなかった。その人の周りにはいつも、大量の煙が充満していた。
へーさんがいると、店の換気扇をいくら回していても、煙が出ていかない。だけど、へーさんが退店すると、煙がスッと薄くなる。
煙の中で飲んでいる、そういう印象の人だった。