列車の中で
がたがたと伝わってくる顫動が、少女の肩を小刻みに震わせる。
「もう、事件の話はやめにしません?」
ヒカルは、それを肯うより他なかった。彼女を傷つけることは本意ではなかったからだ。
「……それじゃあ、この国の皇帝について聞いても?」
「皇帝陛下について、ですか。私も一度しか会ったことはないですが、それでもいいなら……」
列車はなだらかな平原地帯から、起伏の激しい山岳部に差しかかる。左右に振れる車内で、イーリスは訥々と語り始めた。
「ワルハラ帝国の現在の皇帝は、万雷帝、イヴァン・フロプト様。即位されてから二年間、絶えず自らの理想を追い求めていらっしゃるといいます。私が陛下に御目見得したのは半年程前ですが、噂に違わぬ理知的な雰囲気、行動的な素振り。まさに皇帝という風格でした」
静かな中にも喜々として、尊敬の念を浮かべるイーリスの口振りに、ヒカルはますます皇帝の人物像が分からなくなった。彼女がどの程度、イヴァンという皇帝に肩入れしているのか。頬の紅潮の度合いを見るに、心酔、もとい信頼しきっているように思える。これでは客観性に欠ける。皇帝の人柄はイーリス同様に、実際に会ってみないことには分からないとヒカルは思った。或いは、皇帝がヒカルに対してどのように対応するかにもよるが……。
その後も、ヒカルの質問は続いた。駅を一つ過ぎて、夜も更けて……。幾分か列車の速度は遅くなり、質問の種も尽きてきた。腹が空いたと思っていたら、それを察したイーリスが席を立った。ヒカルは自分で行こうと思っていたのだが、イーリスに止められた。
「だって、食堂がどこか分からないでしょう? それに、ヒカルくんは正式な渡航者ではないので……」
言われてみれば確かにそうだ。もし見つかって問題化して、送還されれば元も子もない。ヒカルは、イーリスに渡された本を読みながら、大人しく待っておくことにした。
「おいおっさん、早くしろよ。何かあったらまた怒られっぞ」
「あのなぁ、もう少し儂を労らんか。一応二回り程は年上だぞ」
黒服を着込んだ二人組の男が、食堂車と客車の間の通路で揉めているようだ。面倒なことに巻き込まれたくないイーリスは、そっと角のところに身を隠した。どちらにせよあの二人が動かなければ食堂車に迎えないし、なにより平素から人に気を使わせないように行動しているので、自然とそうしたのだ。だが二人は、彼女に気づかない様子で話し続ける。
「だいたい、乗ってるかも分かんないだろ?」
「あくまで可能性の話だがな。はぁ、我々も能力者を感知できる体質ならばよかったのだがな……」
聞き耳をたてるつもりはまったくなかったのだが、如何せん、能力者という言葉が気になった。あの二人組は、まさか……。
「それより、藤光さんは何か連絡を入れてきたか」
藤光……、倭国風の名前に、イーリスの悪い予感がますます募った。先程、ヒカルを諭した時に考えていた可能性、すなわち送還の可能性である。まさかこれ程早く、調査の手が回るとは……。
ガタン!!
列車のたてる音とは違う大きな音に、二人組の黒服が顔を上げる。カーブに差しかかった列車がぐらりと揺れて、バランスを崩したイーリスが床に倒れ伏したのだ。二人組は気遣う素振りで近づいてきた。
「大丈夫かい、お嬢さん。僕が腕を貸しましょう」
「はぁ、声音も態度もころりと変えおって……」
若い方の男、少々軽薄な印象を与える人物に助けられて、イーリスはふらりと立ち上がった。エプロンドレスの裾を整えて、改めて礼を言う。
「お礼なんていいんですよ、お嬢さん。僕は当然のことを……」
「おい、もう止めたらどうだ。呆れられておるぞ」
年上の男、体格が良く、顎髭を蓄えた禿頭の老人がたしなめるように言う。こちらはある程度、信用が置けそうである。その老人が、イーリスに問うた。
「ところで、この列車で倭国人の少年を見なかったでしょうか。黒髪、中肉中背で背はこの位……」
そう言って男は、自分の口元辺りに手をやる。間違いない。彼らはヒカルを探している。黙っていれば怪しまれるのでは、と考えたイーリスは咄嗟に返した。
「いいえ、見ていません」
「…………そうか、ご協力ありがとうございました。おい、行くぞ」
「じゃ、またね」
引っかかることがあるのだろうか、釈然としない表情を浮かべながら、老人は若い優男を率いて行ってしまった。いやな予感だ。手を置いていたエプロンドレスの布は、じっとりと湿っていた。
戻ってきた部屋の中では、ヒカルが本を読みあさっていた。ただの説話集であるというのに、ひどく真面目に読むのだな、とイーリスはぼんやりと思った――。
「そうじゃなくって、大変ですよ! 倭国からヒカルくんを連れ戻しに来てる人がいるんです!」
「えっ、この列車に乗ってるのか? どこにも寄らないでまっすぐ向かって来たのに……、どうやって」
「とにかく、気をつけてください」
その時、部屋の扉をノックする音がした。ビクリと肩を震わせる。間違いない。先程の二人組が、客室を一つ一つ調べているのだろう。
「ひ、ヒカルくんは隠れててください。…………でも、それからどうしよう……」
仕方がない、自分が身体を張らねば。イーリスは覚悟を決めた。