個室とメイド
「十二番、十二番……。ここか」
十二の文字が刻印された金属のプレートがかかった扉の前で、ヒカルは小さく呟く。中は見た目以上に広く、入って扉を閉めてしまえば、外の騒音はほとんど聞こえない快適な作りだ。これも魔法によるものなのか――。
ヨハンが来る気配もないので、暇ができた。普段ならば家の掃除を行うのだが、列車の個室では勝手が分からず、何より用具がない。荷物を片づけて席に着き、ぼうっと待っていると、地震のような振動に襲われた。驚いて窓の外を見ると、ゆっくりと駅舎が右に流れていく。ともすれば、この揺れは列車の走行振動か、人工物がこれ程の衝撃を生み出すとは……、軍艦といい列車といい、出会うもの、全ての規模が計り知れぬ。それでは、この列車が向かう町、皇帝のいるゲレインとは、一体どれほど大きな町だというのか。不安と疑問は泉のように湧き出ては、個室の中に積もっていく。
コンコン――。
列車が出発してからしばらく経ち、腰を打つ振動にも慣れ始めた頃、ドアを叩く音がした。ヨハンの用事が済んだのだろうと思って返事をしたが、入ってきたのはメイドの少女、――大臣と呼ばれていた男につき従っていた少女であった。
「ヒカル様、ですね? 主のエルヴェより命を受け、身辺のお世話をしに参りました、イーリスと申します」
イーリスと名乗る少女はおずおずとそう述べた。頭一つ分低い背丈のために上目遣いになった視線が、ヒカルの顔を捉える。見つめ合う形になったヒカルは、反射的に目を背ける。故郷での失踪事件以来、というより生まれてこの方、女性との関わりが少なかったために、彼は女性とのつき合いを苦手としていた。
「えぇっと、イーリス、さん。ヨハンさんは、まだ用事がすまないんですか?」
たどたどしく尋ねてみたが、イーリスは困ったように手を頬に当てて、それがですね……。と切り出す。
「緊急の勅命が下ったとのことで、主とともに空路でゲレインにお戻りになられました」
「そうなんだ、じゃあ、話の続きは聞けそうにないな……。ところで、空路って?」
「それは、飛龍を使ったんです。ワルハラの中央部は山がちなので列車はかなり蛇行しながら進むんですが、龍は山の間を縫って飛べるので速いんです!!」
ニコニコと、そしてどこか得意気にイーリスは語る。出発してから駅には停まっていないので、始発駅、カルーレアンでその飛龍というものに乗ったのだろう。あぁ、見てみたかったな、飛龍。とヒカルは心の中で一人ごちた。倭国には龍といっても、水辺に住む小型のものしかいない。人を乗せて運べる大きさの龍とは、一体どのような姿をしているのだろうか。
「……ヒカル様?」
龍のことについて黙考する男の顔が、ひどく深刻そうに見えたのだろうか。怪訝な顔でイーリスが声をかける。
「あっ、ヒカル様って俺のことか。……慣れないな、様って」
イーリスは、その言葉を不可思議なものとして受け取ったようだった。彼女にとってはそれが常識、普通なのだろうから。そも、彼女は何歳なのだろうか……。自分より年上なら様づけに違和感があるし、年下なら世話をかけられることに抵抗がある。とりあえずは……。
「様づけやめて、タメで話しませんか?」
「……それは、それは命令、ということでいいでしょうか……」
その後、彼女の警戒、或いは誤解を解くのにかなりの時間がかかった。ちょうど、剣の試合の前の精神統一を乱されたのに似ていたのかもしれない。自分の波を崩されると、立て直すのが難しい。しかし、『様』と『さん』の関係がそれを上回るくらいに歪に耐え難く感じたのだ。もちろん、独りよがりだと、返って迷惑だと思われていたかもしれないが。
「それで、イーリス、……は何歳?」
「あっと……。十二、じゃなくて三歳ですかね」
やはり、年下だったか。大人びているとはいえ、まだ目にあどけなさが残る。
「俺は十六。六歳で突然親がいなくなってからは、じっちゃんに助けられて生きてきた」
「……十年前? 失礼ですが、ヒカル……、くんの両親はいなくなってしまったんですか」
躊躇いながら紡ぐ言葉の端に、ヒカルは敏感にあることを感じ取った。すなわち、鋭い勘でもって失踪事件の含みを。
「失踪事件、こう言えば分かるとは思うけど……」
そこまで言って、ヒカルは後悔の情に襲われた。そして同時に、イーリスに対して抱いていた大きな謎が解決した。――なぜこの弱冠十三歳の少女がエルヴェなる人物の下でメイドとして働いているのか。
そこにあるのは、扶持を受けられたか否かの違いだけ。或いは、もっと複雑な事情があるのかもしれない。いずれにせよ、彼女のトラウマを呼び起こした罪悪感が、胸の奥底に堆積して真っ黒の重みをかけてくる。
「……………………同じですね。不思議だったんです、なんでヒカルくんみたいな、……その、子供が、すぐに招聘に応えたのか。……そういえばヨハネス様は、失踪事件の調査も行っていましたね」
「ごめん、思い出させちゃって……」
イーリスは笑って、――悲しさを繕っていることは傍目から明らかではあったが――首を振った。
「いいんです。私なんか、両親の記憶なんてほとんど残っていませんし……、このお仕事だって、エルヴェ様は優しいですし、いろんな人に出会えて。毎日楽しいですよ」
イーリスの組んだ指が固く握られて、震えている。笑顔には不似合いな小刻みな震え。もしかしたら、彼女の記憶の隅には、ヒカルが知らない失踪事件の断片が転がっているのかもしれない。しかし、それを見ること能わず、ヒカルはイーリスを前にしながら、彼女を心配しながらも事件のことを考えている、そんな自分に自己嫌悪の念を強めた。