各々の決断
それって……、と言いかけて、ヒカルは口をつぐむ。言葉を濁してはいるが、この態度を見れば分かる。彼の町もまた、失踪事件に巻き込まれた、ということだろう。
「いつです?」
「つい半年前なのだが」
彼が失踪していないということは、彼は普段は故郷を離れて生活しているのだろう。自分のすぐそばで人が消えるのと、自分の手の届かないところで人が消えるのと、どちらが辛いだろうかと考えてみようとしたが、やめた。この悲しみ、怒りは、計って比べられるものではないのだ。
ヒカルが心を落ち着けるのを待っていたのか、それとも自分の心を整理していたのかは判然としなかったが、ややあって、ヨハンが続ける。
「私はその町の領主の子として、その事件の調査も請け持っている。どう考えても過労だと思うのだが」
「……それで」
「まだ事件が起きて間もないワルハラには、失踪事件の謎を解く鍵があるかもしれない。もちろん、お前の両親の居場所のてがかりも――」
この町で事件が起きた時、自分はまだ幼かった。それ故に、何をしていいのか、何が事件解決の鍵になるのか、それすら分からなかった。だが、今なら……。
自分の心の中にある天秤の皿が、大きく傾くのが分かった。このまま家で待ち続けたとして、何が変わるというのか。事件を解決するために動いた方が、多くの人の心に再び光を燈すことに繋がるのではないのだろうか。
長い間変わらなかった均衡が崩れるのに、時間はかからなかった。
「条件があります」
「何だって構わないのだが」
家族がいなければ、自分のいるところを家と言えばいい。ただ、ヨハンとともにワルハラに行くとして、一つだけ心残りがある。
「俺には、育ての親のじっちゃんがいるんです。じっちゃんが許したら、俺は行きます」
ヨハンは、満足そうに頷いた。
ヒカルの言うじっちゃんの家は、町の高台にある。低いながらも塀が巡り、小さいものの池がある。他の家と比べれば少し大きな家――。
「……と、聞いていたのだが、思ったより大きいな」
(そんなもんかなぁ)
そうはいっても、ヒカルの知る家といえば、自宅とこの邸宅、馴染みの店数軒だけである。平均だとか標準だとか、そんなものは知らないので、齟齬が生まれたのだろう。
「とりあえず待っててください。……じっちゃんは外国人嫌いなので」
そう言い残して、ヒカルはそれ程大きくはない門を潜った。
ヒカルがじっちゃんと呼ぶ老爺は、畳敷きの部屋で手紙を書いているところだった。後ろから声をかけようとしたが、ヒカルの気配に気づいたのか、逆に老爺の方から話しかけてきた。
「どうした? まだ稽古の時間じゃないだろう」
彼の家には時計がない。にもかかわらず、彼は常に時計以上に規則正しく生活を行っている。ヒカルが小さい頃から不思議に思っていた、老爺の特徴である。因みに、稽古というのは剣術の稽古であり、今も町の子供たちに教えを施し、そして彼らから慕われている。
「いや、そうじゃなくてね。実は……」
ヒカルは、ヨハンが家を訪れてからの子細を語った。その間、老爺は眉一つ動かさず、しかし優しげな笑みを浮かべて、真摯に話を聞いていた。
「そうか……。お前が行きたいのなら、行けばいい」
「…………えっ、いいの?」
もっと難航すると思っていたし、ある種の期待もあった。老爺とは、人生の最も多くの部分を共有していたため、そう簡単に行かせてはくれないだろうと。
「お前がそうしたいんだろう? 儂がたとえお前の親だったとしても、それがお前の気持を抑えつけていい理由にはならんじゃろうしな」
いつもと変わらぬ口調で、老爺は述べる。しかし、雰囲気というか、表情の僅かな変化や、膝に置いた手の震えが、彼の心の裏を示しているようであった。目頭が熱くなるのを、静かに感じる。
「今まで、ありがとうございました……!」
「堅苦しいことはいい。……そうだ、あれを渡しておかねばな」
老爺は当たり前のことをしたまで、と言うように手を振って立ち上がる。向かった先は床の間だった。
老爺の言うあれとは、一振りの刀である。聞くところによると、ヒカルの父親のものであるらしい。
「成人したら渡そうと思っておったが……、まぁ、自分の身の振り方を決められるようになったらば、大人と変わらんじゃろう」
そう言いながら、両手で差し出す。刀は、普段手にする竹刀や木刀と比べものにならないくらい重い。命を奪う武器としての重さがある。それに、何があっても、それで身を守れるから。という優しい意図も込められているようだった。
「……ありがとう。絶対、父さんと母さんを生きて帰してみせるから。待ってて」
老爺は、その言葉が聞きたかったのだと言うように、力強く頷いた。
「ん、了承を得ることができたようだな。……その刀は?」
門の外には、ヨハンが、先程と同じ姿勢をとって待っていた。煙草の火を揉み消しながら、そう尋ねられたので、じっちゃんに貰いました。とだけ答えた。
二人が立ち去るのと入れ違いに、黒服を着込んだ、痩せた中年の男が、老爺の家の門を潜ってきた。畳敷きの部屋に入った黒服の男は、開口一番に言った。
「老師、ヒカル君が来ていたようですが、何かあったのですか」
優しげな垂れ目の黒服は、真剣な口振りで聞く。その目的を何となく察した老爺は、敢えて聞こえない振りで手紙を書き進める。辛抱強く待っていたものの、いくら声をかけても反応がないので痺れを切らした黒服の男が、老爺の筆を押さえた上で尋ねる。
「言いづらいことなのですね?」
老爺は、ヒカルに向けたのと同じ、我の強い弟子を見る時の視線を黒服に向けた。
「藤光、あいつももう子供じゃないんだ。儂やお前ら大人の都合を押しつけるのは、止めにしないか」
「……!」
藤光と呼ばれた黒服の男は、頭を抱えた。今まではどうにかなってきたが、こればかりはまずい、追わねば――。
突然、視界が回転し、天井の木目が見える。何が起きたか理解するのに時間がかかったが、見下ろしてくる老爺の顔を見て悟った。
(投げられたか。まったく感知できなかった……)
老師は自分を行かせないつもりなのだな、と藤光は諦念に身を委ねて肢体を投げ出した。
「これは……、また怒られるだろうなぁ……」