夜明けの光
「……やっと戻ったわね、少年」
荒れ放題の部屋に光が満ち溢れ、二つの影が降りてくる。自分の判断は、根拠なき信頼は、間違っていなかったと、ソフィは安堵のため息をついた。
「お二人とも、お帰りなさい」
「ただいま。……あと、ありがとう。イーリスのお陰で、俺たち、助けられた」
ヒカルの謝辞を聞いたイーリスは、先程の自分の叫びが、アテナだけでなく、彼女の中にいた二人にも聞こえていたのかと、目を丸くした。前に組まれた指が、少し恥ずかしげに細かく動いた。
「それで、少女の治療は終わったんでしょうね?」
「それは、もちろんであります。精神世界は、元通りとはいきませんが、裁き人の影響はなくなった。保証するでありますよ」
それならばよいと、ソフィは頷いた。命あっての物種だ。戦いに勝っても、死んでしまっては意味がない。負けても生きていれば、挽回の機はある。そして、アテナは死の淵から生還した。素晴らしい終幕だ。
既に窓の外には、朝日が溢れていた。木枠の嵌った丸窓から、轡のような形に切り取られた陽光が差し込んでくる。
「朝だよ、アテナ」
ヒカルがそう呼びかけると、アテナがぱちりと目を開けた。久々に見る外光に、思わず目を細めたアテナは、ゆっくりと辺りを見回した。ヒカル、ケリー、イーリス、ソフィと、部屋の中にいる人々の顔を順番に見つめてから、アテナはようやく、ことの顛末を思い出したようだった。
「皆、ありがとう。……でも、ごめんなさい。私が裁き人に取り憑かれたばかりに、危険な目に合わせてしまって……」
「気にすることないわ。必要なことだったし……、それに、苦しんでる人を助けるのに、苦しみを取り除いてあげたいと願う以上の動機も理由もいらない。そうでしょう?」
申し訳なさそうに俯いたアテナの肩を叩き、微笑を浮かべたソフィが述べた。孤独に悩む人ならばもちろんのことながら、笑顔の中心にいる人でも、迷い、苦しむことはある。そんな時、助けの手が差し伸べられない程、悲しいことはない。
もしアテナが自分の立場であれば、迷わず助けに向かうだろうと、ソフィは感じていた。その立場が、たまたま逆であっただけなのだから、むしろ、助けに行かない理由がなかったのだ。
「皆、本当に、アテナさんが戻ってくるのを待ってたんですよ。陛下も、ソフィ様も、ケリー様も。もちろんヒカルくんだって」
アテナは、ベッド横に佇むヒカルに、目を向けた。一瞬、目を逸らしかけたヒカルだったが、彼女に正面から向き合わないことが、失礼なのではないかと思い直し、敢えて両の目を合わせた。
「ありがとう、ヒカル。……もしかしたら、私ずっと、ヒカルに助けてもらいたかったのかもしれない。無責任かもしれないけど……」
アテナは、俯きながら、自らの力のなさに恥じ入るように、声を小さくした。
「それは、……いいや、俺も同じだ。俺は逃げたも同じなんだ。わがままで国を飛び出して、何も救えなかった……」
抱えた無力感は、お互い様であった。口に出してしまえばそれまでのことではあったが、心の泥溜まりの中身を全て吐き出すことができた訳ではない。
「でもヒカルは、それでも私のところに来てくれた」
それのみが、純然たる事実としてある。ヒカルが取りこぼしたものの内の一つ、それを、裁き人を相手取りながら拾い直したということは、ある種の希望的事実であった。
「だから、大丈夫。きっとヒカルは、他の裁き人も倒せる……。救い出すことだって、できるよ」
理由こそないが、アテナにとっての真である。彼女の心の奥底に触れて、その身命をかけて彼女を助けようとした少年。説明不可能の自信の根拠としては、しかし、十分すぎる程であった。
「えぇっと、そのことでありますが……。ちょっといいづらいことがあって……」
アテナの笑顔に、ヒカルの頬も緩みかけた、その時、黙って様子を見ていたケリーが、吃りながらも口を開いた。その態度がじれったくて仕方がないという風に、ソフィは早く言え、という目で睨んだ。
「……はい。あのですね、実はあの裁き人と思われる存在、本体ではないと思うのであります」
息を飲む音がした。実際、ヒカルはある程度、それを予期してはいた。数千年の長きに渡り、人類を統御してきた絶対の存在。その最期としては、あまりにも呆気ないものであった。
「もちろん、理由はあります。アテナさんの精神世界で、私たちは、肉体そのものを霊体化させて、直接に入り込んだ。でも、アテナさんは精神体だけ……。アテナさんの精神世界なのですから、当然といえば当然でありますな」
「それで?」
ソフィが促すと、ケリーは指を顎にあてがい、考えるような素振りをした。
「……裁き人は、アテナさんの精神を取り込んだ。恐らくあの世界の裁き人は、精神体なのであります。本体は、別のところに……」
「やっぱり、そうなるわよねぇ……」
大体、乗っ取りに失敗すれば潰える命であるとするならば、裁き人が地上に君臨できる訳がないのだ。それを考慮すればこその仮説だ。ともすれば、裁き人本来の力とは、いかばかりか。
ヒカルは、唾を飲み込みながら、アテナの顔を見た。その顔に、裁き人の嘲笑を幻視していた。まるで、お前は一人たりとも救えない、誰も彼も等しく、目の前で嬲り殺してやろうとでもいいたげな、ひしゃげた笑みであった。