幻聴と幻想
(アテナ……!?)
アテナの声だ。幻聴かとも思えたが、やはりはっきりと聞こえた。ヒカルには、何が起きているのか分からなかったが、何のことはない、ここはアテナの精神世界なのだ。彼女の心情が、マナを通して伝わっただけのことである。
(何故、俺はアテナを助けたくて、ここにきたんだ。それに裁き人をそのままにはしておけない……)
それは分かってる、とアテナは返した。
(でも今、裁き人を倒さないと、手がつけられなくなる。……私、分かるんだ。裁き人と、つながってるから……)
ヒカルは当惑した。様々な力が、様々な言葉が、アテナもろとも裁き人を切るという道に、ヒカルの足を押し進めるのだ。今やヒカルは、少女を犠牲として裁き人を討伐するという道を、走り抜けているに同じであった。道の両脇は崖、引き返すことは認められない。
(どうにか裁き人を、前に引き出そうとしたんだけど、駄目だった。力を温存してた……。こうなることを見越してたのかも……)
すまなそうに呟くアテナの声に、ヒカルはいたたまれない気持を抱いた。胸が詰まり、彼女の回避能力に頼ろうとしていた自分が、非道く無責任に思えた。
退路は絶たれているのだ、頼れるのは、自分の力量だけだ。アテナを切らず、裁き人だけを的確に――。
アテナの気配が消えると同時に、半ば幻想へと入っていたヒカルの意識が、目の前の現実に引き戻される。刀は既に、裁き人の目と鼻の先に迫っていた。
(裁き人だけを……、裁き人だけを切る……! 考えても駄目だ、目に頼るな。五感全てを集中させろ、研ぎ澄ませ!!)
アテナと裁き人の精神体が、同じ性質であるはずがない。それらが区別できれば、刀の軌道を変えることができる。アテナを切らずに済む。
(視えたっ!!)
そして、刃が頭髪に差しかかった時、ヒカルの観察は完結した。アテナの強い願いが形となったか、神経を鋭敏にしていたことが功を奏したのか。裁き人の形の中に僅かに見える、黒白の濃淡。それが、二つの精神の分離である。問題は、白く霞がかった部分、恐らくアテナの精神が、前面に薄く広がっていたことである。
(どこをどう切っても、アテナに刃が入る……。こうなったら、あれしかないか……!)
思い返すのは、ヒカルがまだ倭国にいた頃。育ての親である老爺が見せた、不可思議なる剣術の技法である。
「ほら、ここに餅が三つ、重なっておろう。この内、真ん中の餅だけを切ることは、ヒカル、できるか?」
「このままで? 無理だよ……」
ヒカルがそう言うと、老爺はカラカラと乾いた笑い声を上げた。
「できる。何、簡単なことだ。切る速さを変えればよい」
刀で切られても気づかない、にわかには信じ難いことであるが、現実に起こり得ることだ。あまりに速く刀を振ると、鋭い横断面が再び癒合するのだそうだ。老爺の門人から聞いた話では、ある人斬りは居合の達人で、目にも止まらぬ速さで刀を抜き、まばたきの間に切りつけ、納刀するのだという。切られた者は、その場では何事もなく歩いていくが、小一時間程で身体が裂けるという話であった。
だが、それはあくまで語られるものだ。脚色もあるだろうと考えていたヒカルの前で、老爺はすらりと刀を抜いた。
一瞬の出来事であった。空気までもが切り裂かれるような感覚に、ヒカルは身震いした。急いで老爺に視線を移すと、彼は既に、刀を鞘に納めていた。まさかと思い、恐る恐る餅を持ち上げてみると、果たして、中段の餅は、確かに二つに割れていた。そして、上段、下段の餅は、丸い満月の形のままであった。
感嘆するヒカルに、老爺は何事もなかったかのように、半分の餅を差し出した。呆けたような顔でそれを受け取ったヒカルは、残り半分の餅を口に運ぶ老爺に尋ねた。
「俺もできるかな……」
老爺は顎を動かしながら、柔らかく笑んだ。
「きっとできるさ。頑張って剣術を極めて、大事な人を守ってやれよ」
それから今日まで、老爺の高度な技を模倣できたことはない。あまりにその技は完成されており、見上げるのも首が痛くなるので、半ば諦めていたのだ。しかし、それは剣術修行に手を抜いていたということでは、決してない。鍛錬であれば、人一倍積んできた。
その自信を胸に、ヒカルは、自らの経験と勘に従い、腕に力を込めていく。刀を勢いよく奥に差し入れ、裁き人を貫く。そこから、奥の刀を残しつつ、手前を速く切り下げて、股下に抜く。
一瞬の内に、ヒカルはそれを終えてしまった。額の汗が、遅れて滴った。口からは、荒い呼吸が漏れており、顔を上げることもできない疲労が襲う。
もし、刀を振り下ろす速度が遅ければ、アテナも巻添えである。或いは、裁き人を倒せていなければ、ヒカルの命運は絶たれることとなる。ヒカルは、足元に点々とつく、汗の粒の染みを見ながら、ひたすらに祈るしかなかった。
どれ位経ったであろうか。どこかから、息を飲む声が聞こえ、そうして、俯くヒカルの肩に手が置かれた。それは、致命の一撃を加えてやろうという悪意あるものではない、嬉々とした暖かみに溢れた、柔らかな感触であった。
長い、長い息をつき、ヒカルはゆっくりと顔を上げた。そこに立っていたのは、翠緑の両眼に、涙を満々と湛えた、青髪の少女であった。頬を赤くし、何かを言おうと口を開きかけては、閉じることを繰り返した少女は、長い沈黙の後に、感謝と、喜びと、少しの気恥ずかしさの籠った笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ヒカル……!」
万感の思いの詰まった言葉。それ以外には、何もいらなかった。