袈裟斬りの盾
「抜いたわね、抜いたわね!?」
可笑しくてたまらない、嘲笑を浮かべる裁き人は、腹を抱えて笑い出しそうになるのを、堪えているという風であった。まるで切られる心配をしていないようであった。
「切れない刀なら、使わない、方がマシでしょうに……」
ニタリとした粘着質な表情を浮かべた裁き人が、爪先を地面に打ちつければ、またたく間にせり上がった大地が、ヒカルの方へと倒れてきた。
「この娘に見せて、あげたいの、ボクが圧死するところを、ね?」
「避けるであります!! 黒魔術式が練りこまれてる、触れたら終わりでありますよ!!」
歌うような裁き人の声に、危機を知らせるケリーの声が重なる。ヒカルを取り囲む、列石のような塊の隙間から、目が覗いた。そこにあったのは、紛れもない、決然としてその時を待つ、アテナの潤んだ翠緑の瞳であった。
(退けない、アテナを救うためなら、俺は何度でも切って、切って切ってやるッ!!)
マナの煌めき、一閃。次の瞬間には、灰色の塊が残らず還元され、花吹雪のように舞散っていた。白黒の桜の乱舞に霞む視界の端に、徐々に歪む裁き人の面相が見えた。
「嫌いなのよね。やってやった、みたいな顔して、私に勝とうとする、身の程知らずが」
「そうかよ、じゃあもっと、嫌うことになる……」
迷わず前に出るヒカル。ケリーの止める声を追い抜いて、少年剣士はぐんぐんと、裁き人への距離を詰めていく。しかし、裁き人もまた、力強い一歩を踏み出す。両者は、すぐにぶつかり合った。
「あはは、やっぱり、その程度なのね……。私がその気になれば、この記憶の残滓で、洗い流すことだって、できるのに」
「それをしない……、いや、できないんだろ」
体勢を立て直し、刀を再び構えるヒカルの言葉に、裁き人の目が引き攣った。憎々しげに、対峙する少年を睨みつけた裁き人は、震える舌で唾を吐いた。
明らかに、攻撃の質が落ちていた。アテナを完全に取り込んで、真の姿を現した時の力には、到底及ばない。ケリーを探してヒカルが逃げている時の攻撃も、今のそれに比べれば、まだ力が籠っていた。ヒカルの剣技では、まずとらえ切れなかったであろう。
しかし、今は違う。この女の中から、ふつふつと湧き上がる抵抗心。アテナという少女が、裁き人の心の中で、反撃を試みているのだ。故に、攻撃には迷いが、ブレが生じる。威力も半減する。
決定打になり得ぬ攻撃を続けていても、意味がない。むしろ、無用の隙が生まれかねない。それ故に、近接戦闘に戦法を切り替えた裁き人の判断は、正しいだろう。
ただしそれは、ヒカルの剣先の届く位置に、身を置かざるを得なくなるということである。万に一つもあり得ないことだと、裁き人は読んでいるが、仮に防御が間に合わなくなったとすれば、それは直接に、裁き人の敗北を意味するのだ。
斬撃と、黒白の塊の応酬の中、ヒカルははっきりと、裁き人の力が弱まっていくのを感じていた。彼の攻撃が叩き込まれる度に、裁き人の自我が揺らいでいく。彼女に内包されたアテナの部分が、徐々に膨らんでいく。
「うぅッ!? ……ッはぁ、まさか、ここまで……ッ!!」
憎悪の声が、脳髄を穿つのも、最早気にもならなかった。ヒカルは、一つ息をつき、ゆっくりと、狙いを定める。分離しつつあるアテナの精神は、裁き人の身体の左に寄っているようだ。ともすれば、右半身を袈裟斬りに叩き切るのみである。
「行くよ、アテナ……」
ヒカルの呟きに、裁き人の左目が閉じる。アテナの目配せということだろう。互いに覚悟は決まった。
「おおぉぉーッ!!」
失敗はできない、気持を奮い立たせ、雄叫びを上げるヒカルを見、裁き人の目に、初めて焦りと、僅かながらも恐怖の色が差した。多重に展開された防御壁も、ヒカルの突撃を止める程の強さはない。一筋の流星が叢雲を突き抜けるかのように、ヒカルは駆け抜ける。
全ての障壁が取り払われ、ヒカルと裁き人の顔が、息のかかる距離にまで近づく。その表情を正視したヒカルは、思わず息を飲んだ。
そこに現れたのは、怯えと苦しみの中にも、少年を信じる気持を同居させた、アテナの表情であった。それが目の前に現れたことで、ヒカルは裁き人の用意した、最後にして最悪の策を理解してしまった。
(ただ切られるのは癪だわ。だから、ほら、この娘も道連れにしてあげる……。盾として仕事してくれれば、また私がこの精神世界を統べることができるし、裏返ることも簡単。……ふふっ、ごめんなさいねぇ)
アテナの精神の裏側に隠れた裁き人は、ほくそ笑んだ。あの少女は、少年の手で絶命するのだ。少年は、少女を手にかけた罪を背負い、残り僅かとなった時間を生きていくのだ。それが嬉しくて仕方がない。まったく、不合理で不条理で、何て歪な幕引きだろう。裁き人は脳裏に、絶望する少年の顔と、事切れた少女の景を思い浮かべた。
(アテナ……、頼む、避けてくれ……。俺の力じゃ、君まで傷つけることになる……)
ヒカルは、運命の神に強く願った。突進を止めることはできない。このままでは、アテナを切り伏せることになる。そうすれば、ヒカルは永遠の後悔を負うことになる。ヒカルを信じて命を預けてくれたアテナに対する、裏切りにもなる。
(いいよ……、ヒカルになら)
その時、ヒカルの脳内に、声が響いた。