無数の約束
にこやかにゆっくりとアテナが腕を広げると、鏡に映る像のように、もう一人のアテナも腕を広げる。二人はその手を絡み合わせ、何かを確かめ合うように見つめ合い、そして抱擁した。
「…………ア、テナ」
無言でそれを見ているヒカル。ただ指を咥えて見ていたのではない。駆け寄って引き剥がそうにも、まず身体が動かなかったのだ。傍らにいるケリーもまた同じく、少女が、反対の世界から抜け出したかのような、もう一人の自分と抱き合うという、異様な光景に、まばたきすら許されず、観劇を強制されていた。
触れ合ったところから、灰色のアテナはインクに浸されていく。滑るように乗せられていく色の広がりは、あたかも人格を上書きするかのようである。
止めろという制止の叫び、また或いは、止めてくれという懇願の声すら、裁き人は許さなかった。口を開いては、動かない舌のために、紡ぐこと叶わなかった言葉が、唾液の滴りとして消えていく。
(アテナ……、“アテナ”が消える、そんなこと、あっていいはずない!!)
鎖に繋がれた犬のような格好のヒカルを嘲笑った声は、二つであった。二重の少女の哄笑。それは、アテナという少女が、遠く果まで行ってしまったということである。パンの一片程も残さずに、彼女が駆逐されてしまったということである。
「…………そ、そんな……」
ショーは終わったと言わんばかりに、二人のアテナが、互いに巻きついていた腕を解放する。それと同時に、銅像の如くに固まっていたヒカルとケリーは、自由になった。もっとも、今の彼らはそうそう、動くこともできないのではあるのだが。
「やはり、機械仕掛けの神の筋書きは、無秩序に美しい……。結局、どの道を通ろうとも、絶望の破局は眼前に!!」
恍惚の表情で、そう叫ぶアテナの姿。もう、ヒカルの知る彼女はいない。ヒカルと出会う前の、ある意味では本当のアテナすら、ここにはいないのだ。それを理解したヒカルの心に去来したのは、得もいわれぬ喪失感だった。開かれた口の端に、上の方から塩水が垂れてきた。何度も味わったものだが、一際辛く、苦い。
そんな気持を逆撫でするように、裁き人はため息混じりに辺りを見回した。
「もうこうなると、こんな子供の姿でいるのも飽きてきたわ。喜劇は終わった、さようなら」
微笑みと共に、二人のアテナの影が崩れ落ち、大きな一つの泥溜まりに変じた。泥溜まりは、再び泡を立てて、やがて一人の人間を呼び起こした。
それは、見る者が正気を保っていられなくなる程に、美しい醜悪さと、高貴な卑しさを兼ね備えた姿であった。深淵の花園の中央で、禍々しく、そして気高く咲く、たった一輪の薔薇であった。
それこそが、裁き人の真の姿なのであった。
同じ頃、ケリーがあてがった部屋の中で、ソフィは一人、思索に耽っていた。アーレンツ辺境伯のことは元より、頭を過るのは、アテナのこと、そして、少女を救うために行ってしまったヒカルのことである。
ソフィは、今になって後悔していた。ヒカルを送り出すのは、時期尚早であったと思えたのだ。確かに、王都の戦いにおいては、彼は果断でもって活躍した。しかし、敵は強力であったとはいえ、単なる黒魔術師。味方は大勢いた。皇帝すらも戦ったのである。故に勝利は、彼の力に依拠していたとはいいがたい。皆が団結したからこその勝利であった。
それに比べれば、今回の戦いは、何と無謀なことか。相手は、人類史に常に寄り添い、律し、見守り、そしていつしか敵対するようになってしまった怪物である。それに、たった二人で立ち向かうなど、土台無理な話だ。増して、戦いの舞台は、とある少女の精神界である。相手に有利であるのは、子供でも分かる道理である。
(イヴァン……、貴方なら、少年を行かせたかしら……)
空を見ながら、ソフィは心の中で独りごちた。決断力に富む皇帝イヴァンでも、これは難しい選択となろう。少年を信じるべきか、それとも常識に則って判断するべきなのか。まして自分には、正しい判断などできようはずもない。ソフィはそう考えた。
「約束を破るような人じゃない、か……」
しかしイヴァンならば、ヒカルを行かせたのではないかと、ソフィは勝手に思っていた。特に理由あってのことではない。全くの勘である。何故か、少年の目を見ていると、そんな気分になってしまうのだ。そして、その意気に、少女もまた応えるであろう。
不条理、不合理な思考である。可能性は限りなく低く、むしろ賭けに近い。それにも関わらず、賭けてもいいと思わせる力がある。もしやヒカルやアテナは、巧妙なペテン師なのではないか。世界の常識を相手取り、自らの身命を運命の秤にかけ、そして勝ってしまう。そこには、イヴァンでも持っていない魅力がある。
そんなことを考えていると、緊張も、少しであるが和らいだ。代わりに首をもたげたのは、ヒカルがアテナをどのように救うのか、それを見たいという好奇心であった。やおらベッドから立ち上がり、ドアを開けようとしたソフィは、手を伸ばしかけたドアが、反対側から開かれたことに驚いて、思わず飛び退いた。そこに立っていたのは、階下でアテナを見舞っていたイーリスであった。
彼女は、息を切らしながら、振り絞るように叫ぶ。それは、最も聞きたくなかった、緊急の報告であった。
「ソフィ様!! アテナさんの容態が!!」