乙女真実
立体の輪郭は、砂嵐によって覆い隠されている。足元の凹凸に、いちいち足を取られながら、ヒカルは逃げる。後ろからは、アテナの仮面を被った身体が、ヒカルを倒さんと攻撃をしかけてくる。
ここはアテナの精神界、とはいえ、ヒカルはその身体ごと、直接に入り込んだのだ。つまり、ここでヒカルが死ぬことは、彼の精神の死のみを意味しない。彼自身の命運の途絶をも含意するのだ。故に、ヒカルは必死に逃げる。どこかにいるであろう、ケリーを探して。
「無駄よ、この世界の半分は、もう私のもの。妨害も拒絶も掌の上……」
モノトーンの視界の端で、僅かに揺れる影。そこに、迫りくる鉄塊の気配を感じ取ったヒカルは、咄嗟に横に飛ぶ。背中を、直接的に飛来した、形を持った殺意が弄ぶように掠めたのが、感覚的に分かった。
「だから、二つに一つ」
振り返ったヒカルの視線の先、アテナの姿で、それは指を二つ伸ばした。
「戦って死ぬか、逃げて死ぬか。好きに選ぶといいわ」
戯曲的動作で、人の形のそれは悠然として、ヒカルを見下ろす。対するヒカルは、飛び退いたところで姿勢を低くして、次の攻撃に備えていた。
二種類の視線の交錯。それが解けた直後、ヒカルの動きは、裁き人の予想とは異なっていた。
「……あっ、そう。それが答えなの……」
落胆なのか、驚倒なのか、砂嵐の中に佇む青い髪をまとう人型は、一呼吸遅れて声を発した。そのまま、踵を返して駆けるヒカルを追尾する。
「その程度の覚悟なの、ボク?」
嘲笑が、逃走する少年の背中を突き抜かんと追い縋るのを、ヒカルは足で躱す。鬼ごっこを楽しむかのように、或いは、獲物が弱るのを見届けんとする獣のように、それは着かず離れず追い縋る。
それは偽の言葉である。ヒカルが逃げたのは、覚悟故である。
もし、ここでヒカルが戦ったとて、意味はないのだ。少女の精神土壌を食い荒らす程の力を持った怪物に、無闇な攻撃は効く訳もない。それに、目の前のアテナの姿を取った怪物を倒したとて、それは根本的解決にはならないだろう。アテナの一部を飲み込んだ怪物から、彼女を取り戻さねばならないのだ。そのためには、ヒカルの力だけでは不十分である。
故に、ヒカルは踵を返した。義憤や私憤がないというのでも、決意や覚悟がないのでもない。彼は冷静であっただけだ。アテナの精神世界に入り込む術式を熟知したケリーならば、打開策を打ち出せるかもしれない。
さて、一体いくつの攻撃を回避しただろうか、逃げるヒカルには、幸いなことに、致命傷となり得る攻撃は、未だ届いてはいなかった。とはいうものの、先にヴェイル王国での戦いにおいて負った傷が、塞がったとはいえ痛むのは事実だ。苦痛の度合は、前進するごとに強まる。
(ん、何だ……?)
その時、息を切らして走るヒカルの視界の端に、初めて灰色の砂嵐以外の景色が飛び込んできた。黒い靄のようなものが、あたかも緞帳のように立ち込めた一帯がある。それが、延々と広がる灰色の荒野の中で、不気味な一点として存在しているのだ。
ヒカルは、半ば確信めいた直感でもって、足先を緞帳へと向けた。雨のように降り注ぐ暴力に襲われながら、一歩一歩と踏み出していく。その出どころたる雲の女は、流石に遊びが過ぎたかと、切羽詰まった声で、ヒカルに叫ぶ。
「背中の傷で死にたいの!?」
愚問である。それを厭うがために、ヒカルは直感に従って走るのだ。果たして、その直感は正しかったのか。その答えは、彼の目の前に、壁のような黒い靄の空間が大写しになる程になったときに、自ずと明らかになった。
黒で塗り潰された空間の中に、自分と、アテナの姿をとった敵、それら以外の有彩色を見たヒカルは、警戒しながらも、それを注視した。だが、人間らしい形状の手に、紫紺の毛並を認識するのに、時間はかからなかった。
「ケリーさん!!」
ヒカルは、獣人の名を呼びながら、靄へと飛び込んだ。辺りへと響き渡る声は、彼女にも届いたのだろう。僅かに震えたかと思うと、探るようにその手が伸びてきた。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫ではありませんが……」
身体をよじるケリーの四肢は、絶え間なき抵抗にも関わらず、黒い世界に飲まれつつあった。ヒカルが素早く、撫でるように身体の輪郭を切り取ることで、彼女はやっと解放され、何もない床に座り込む。今まで込められていた力がふっと途切れ、息を一つついたケリーは、咄嗟に礼を述べんとするが、急ぐヒカルはそれを片手で制した。
「それで、本当のアテナはどこにいるんですか」
「……あっ、む、向こうであります!」
ケリーが指差した先、濃密な黒い空気が渦を巻く空間。幾重にも折り重なった闇のカーテンが、絶え間ない呻吟に揺れ動く。間違いない、その声音は、真に青髪の少女のものであった。
「アテナ……っ!!」
草むらを掻き分けるように、ヒカルは前へと進む。段々と高まる少女の苦しみを訴える声に、ヒカルの焦燥は否が応でも募る。
「…………あ」