無数の口は口々に
自分が今、立っている足元は、地面か、はたまた壁か。天頂なのか天底なのかも分からない。自身を取り囲む目や口は、新たなる闖入者を、驚きと嘲りを孕んだ機微で嗤う。
(ここがアテナの精神世界……。いや、本来の姿じゃないだろう)
兎にも角にも、この無意味の空間から、二人を救い出さねばならない。ヒカルは固唾を飲み込み、歩き出した。方向は、まったく分からない。前後不覚であるのだが、ヒカルは自らの直感に従って、すなわち、よりマナの濃いと感じる方へと、足を進めていく。
「こんにちは、勇敢な剣士さん」
歩みを進めていたヒカルに、どこからともなく聞こえた声が、突如として頭蓋の中に送り込まれる。宥めすかすような猫なで声であるのにも関わらず、少年の頭は、沸騰した鍋のようになった。
「うっ!? ぐっ、お、お前か……? アテナを眠らせたのは」
「えぇ、相変わらず勘だけは冴えるようで……」
頭を押さえてしゃがみ込んだヒカルの目の前に、黒い装束に身を包んだ洞穴顔の女が現れる。その、どこまでも続く千尋の谷のような面相に、頭痛も相まってヒカルは気を失いかけるが、爪を掌に突き立てて、耐えんとする。
「だけど、魔術は全く使えない……。少し位、学習したらどうなの? まるで進歩がないわね」
女の轟くような声のために、頭の動く部分は少ない。故に、ある事実に思い至るためには、普段の彼がするよりも、多くの時間を費やしてしまった。
「お前は……ッ。あの時、サーマンダから帰還する時、ワルハラ鉄道にいた……!」
「やっと、思い出してくれた?」
蠱惑的な無数の唇が、白い歯を見せる。それが、友人に再会したような、明るいものであったのが、ヒカルの怒りの琴線に触れた。
「ふざけんなよ……、お前がアテナを眠らせて、人を苦しめてたってことか……」
対話の必要はないと、ヒカルは悟った。人の精神に入り込み、内から掻き乱すなど、到底人間のすることではない。ともすれば、この怪物には情けは無用である。
霊体であったが、刀を抜くことはできた。叫び出しそうな痛みに歯軋りをしながら、ヒカルは切っ先を、洞穴の女に向ける。
「切れるの?」
どこかにある口が、そう問いかけた。或いはヒカルの自問自答であったかもしれない。しかし、その答えは明確であった。是、である。
ヒカルの究極的な目標、それは、裁き人を倒し、奪われたものを取り戻すことであった。幼い頃に親と引き剥がされた少年にとっては、それだけが生きる目的であった。老爺に教えを請い、腕を磨き、来るべき戦いに備えてきたのだ。
無辜の人間は切らない。たとえ罪を犯していても、同罪になりたくはない。実のところ、それらは建前である。人を傷つけるのを、過度に恐れるが故である。裏を返せば、相手が非人間的悪であれば、刃を振るう余地が生まれる。
ヒカルは、今は霊体である。汗はかかぬはずであるが、何かが手に滲んで、刀を滑り落としそうになる。それを懸命に押さえながら、徐々に間を詰めていく。
「裁き人……、お前が……」
「えぇ」
ヒカルの問いに、女は空間に共鳴する是認の文言でもって答える。禍々しい雰囲気の人の形をしたそれは、手を広げた。まるで、切ってくれといわんばかりに。
「最期に一つ。たとえ私を切ったとしても、私は消えないわよ」
「何……?」
洞穴から発せられる音声は、響く毎に重なり合い、聞き取りにくい。そうでなくても、この女の言っていることは、意味不明であった。理解しかねて、歩みを止めたヒカルの目の前で、女の身体は、突然、泥のように崩れた。そこから間髪を入れずに、その泥溜まりがひちめき始める。
「……え」
あまりの衝撃に、刀を取り落としそうになるヒカル。無理もない。その水泡の中から現れた黒いフードの人影の顔を、ヒカルはよく見知っていたからだ。
柔らかな肌と、フードから垂れる青い髪。その間から見える、翠緑の瞳が、ヒカルの前に展開される。
「アテナ……、どうして…………」
彼女を連れて逃げようと、ヒカルは空いた左手を差し出そうとして、しかし、それを中途で止めた。この状況に対する疑念が勝ったのだ。
「いや、お前、アテナじゃないな……」
「半分正解ね」
ヒカルは、あの少女の顔でもって、嫣然たる笑みに悪辣を押し込めた表情を浮かべさせる裁き人に、非常な不快感を持った。このまま切り倒すことは、もちろん可能であるのだが、気になるのは、彼女の、幼さの残るような声音から放たれた、半分という言葉であった。
ヒカルの脳裏に、一つの、最悪の可能性が浮かび上がった。サーマンダの一件で、フルールを騙くらかして、サーマンダ公国陣営を混乱の渦に叩き込んだ要因たる、黒白の双子のように、アテナもまた、人格を上書きされたのではないだろうか。もしそうであるのならば……。
「切れない……」
愕然とした。ある種、最も刃を向けたくはない人物に、最も憎む相手が宿っている。しかし、もう後には引けない。戦いは、もう始まっていたのだ。