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終末のアラカルト  作者: 大地凛
第四章・心界編
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黒い洞窟

 扉の先は、ワルハラ鉄道の客車であった。広い窓がついていて、豪華な調度に飾られた、快適な空間。ただ一つ、注文があるとすれば、天地が逆さまになっている状況を、直してほしいということか。


「何でありますか、これは……」


 唖然として、頭上を眺めるケリー。見上げた天井には、あるべき魔鉱石のランプや空調設備はなく、代わりにテーブルやソファが張りつくように鎮座している。食堂車であるために、クロスの上に、もとい、下になった、皿やグラスやカトラリーも、虫のようにテーブルに留まっている。


 見ているだけで、目眩がするような光景。ケリーは、魔力のより強い方へと、アテナの手を引き、ランプを踏まぬようにしながら足を動かした。



「こんにちは」


 いくつもの扉を潜り、いくつもの車両を踏破しても尚、病巣に行き着くことができず、焦りを感じていたケリーの耳朶に、聞き知らぬ声が聞こえてきた。アテナのものと違い、頭の中で嫌という程に反響する声だ。


「うぁっ……、あ、貴女は……?」


 目も開けられない程に、頭が痛む。しかし、声の主のいる方向は、アテナの動きで分かった。怯えたように、ケリーの後ろに隠れる幼女の対角に、アテナを追い詰めた根源があるのだろう。


 やがて、痛みの波は収まった。ゆっくりと目を開けたケリーの目に飛び込んできたのは、彼女が予想し得なかった、異形の存在であった。


 黒い、波打つような長い髪。黒を基調とした、丈の長いドレスに身を包み、香水の芳香と共に、悪性のマナを放つ女の姿。しかし、その顔にあたる部分には、何もない。何もなかった。ただ洞窟のように暗く、どこまでも続く深い穴が空いているだけ。それの発する声は、無限の空洞に反射しては、乱暴に耳を刺す。


 そして、その気配は紛れもなく、ヒカルが持ち帰った白い布切れと同じでありながら、さらに強いものであった。


「お、お姉さん……」


 眉を顰めたアテナは、震えの止まらぬ指で、一言に形容し難いそれを指し示す。豪奢なランプに腰かけた、貴婦人のようなそれが、中空に微笑んだのが、何故かケリーには分かった。


「残念だけど、私は倒せない。ここは乙女の夢の中、部外者の貴女には、自由にできない……。だけれども、私は曲がりなりにもこの世界の住人。直接の干渉も容易い……」


 ケタケタと笑う貴婦人の輪郭が、途端に崩れていく。ぐにゃりとねじ曲がった身体は、蝋が固まるように、やがてはっきりとした形をとった。


「例えばそう、心的外傷(トラウマ)をズタズタに引き裂いてみる、とかね」


 虚ろの顔はそのままに、貴婦人は、幼いアテナと同じ位の背丈の、中性的な人型に、その姿を変じた。桃色の長髪と、一点の染みもない白い衣服は、どこか浮世離れした、高貴な印象を与えるものである。


 思いもよらぬ変化に驚愕し、しばし訝るように見ていたケリーは、今まで、自身のコートの裾を握っていた手が、離れてしまっていることに、遅れて気がついた。はっとして後ろを見ると、アテナが、か細い呻き声を発しながら、後退っている景が見えた。震えのために上手く動かすことのできない手を、必死に動かしては、口を押さえて、叫び出すのを堪らえようとする。しかし、目の前の現象は、彼女の精神を的確に抉ったのだ。銃弾に撃たれて叫ばぬ者がいないように、心の根幹をもがれて、正気でいられる訳がない。


「……あ、あぁあ……、止めて、お願い、止めてぇっ!!」



 その叫びと共に、ケリーの視界が大きく歪む。これは目眩などではない、明瞭な意識の中、空間が混ざり合って濁っていくのを、眼球レンズで正確に捉えているだけだ。


「おっ、落ち着くでありますよっ! ……うわぁっ!?」


 その場にへたり込むアテナ。この変幻が、彼女の精神界で起こっている以上、歪みは精神の乱れであると考えるのが適当だろう。駆け寄って、この場から逃がそうとしたケリーは、盛り上がってきた足元の天井に、足を取られて倒れ込んだ。仰けの獣人を嘲るように、いくつもの笑い声が響く。


「無駄だよ」


「ここで彼女の心は壊れる。それ即ち心の死だ」


「抜け殻になった可哀想な女の子、生かしておくことは彼女の幸せ?」


「生きる人間たちの自己満足じゃないのか?」


 床は沼のようになり、ケリーを縫いとめる。大の字になった彼女を覗き込むのは、空洞の顔面だ。


「面白いね、お姉さんの身体。霊体化するなんて、人生で一度あるだけでも、貴重な体験じゃない」


 身を捩って、束縛を逃れようとするものの、霊体は、マナの影響を強く受けすぎる。いつの間にか、空間に跋扈していた悪性のマナが爪の間から入ってくるかのようで、手の先、足の先から、感覚がなくなってくる。


「ほら、ご覧よ。“アテナの死”を」


 乾いた笑いを浮かべる、洞穴の人型が、指を動かすと、ケリーの半身は強制的に起こされた。視界の先には、混沌とした砂嵐のような、無意味の情景の連続に、精神を蝕まれつつある幼女の姿があった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……、ごめんなさい、許してください、ごめんなさい、お願いです……。ごめんなさい……」


 うわ言のように、繰り返される単調な文言、絞り出すような一言一言が、届くべきところに届くことはない。顔を上げた幼女は、周囲の砂嵐の中の、無数の目と、目があった。


「…………あ」


 それらがまばたきをすれば、途端に覗くのは白い歯と、赤い舌である。口の群れは異口同音に、青髪の幼女を弾劾した。



「お前の『傲慢』が、お前の母親を殺したのだ……。さらば、裁きも傲慢に、お前もとみに、往ね」


 ガラスの割れる、乾いた音。精神世界の崩壊を告げる、始まりの音が響いた。

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