扉の奥の残滓
気がつくとケリーは、見知らぬ廊下に立っていた。白の壁と白の床、白の天井には、ヤモリの埋め尽くすかの如き単調な影が降りている。くり抜かれた窓の光と、外の景色。そして自身の視界に入った腕だけが、雪に覆われたような世界に、色彩を添えている。
「ここは、どこ……? 私の家では、ないようでありますが……」
そうして口に出した声が、耳に幾度も反響する。音声は世界にハウリングして、鼓膜を刺すような痛みとなって跳ね返ってくる。思わず蹲って、耳を押さえようとしたケリーは、その腕が、何にも遮られることなく、頭の中にまで潜り込んできたことに、今度は声を出さずに驚いた。
魔術に明るい、英明な女はそこで気がついた。自分は、何らかの拍子に、身体全体が霊体化してしまった、つまりマナに変じてしまったのだということ。そしてそのマナの集合は、そっくりそのまま、アテナの中に入ってしまったのだということに。
(これは……っ!? うぅん、中々どうして、予想外でありますが……)
術式を読み間違えたのか、儀式に手違いがあったのかは問題にはならない。今はまず、どうにかして、元の身体に戻らねば。ゆっくりと立ち上がり、周囲の様子をうかがうケリーは、鋭敏に、誰かの足音が近づいてくるのに気づいた。しかし、廊下は、その両端にある扉以外に出入り口はなく、また身を隠すところもない。無彩色の景色の中にあるケリーが、その人物に視認されてしまうことは、必至であった。
(くっ、来るな、であります……)
その相手が誰であるかなど、ケリーに分かる訳もない。だが、仮にそれが、アテナを眠らせている原因たる、裁き人の残滓であれば、ケリーは間違いなく外敵だ。須らく攻撃を受けるであろう。そして、それに対応できる保証などない。
考えている暇にも、足音はどんどんと近づいて、そうして扉が開かれた。真っ白なキャンバスのような空間に、もう一つの色がつけ足される。
「あっ!?」
果たして、重厚なドアを開けたのは、青い長い髪の幼女であった。大きな翡翠のような、柔らかな光を両眼に宿した女児は、怯えたような悲鳴を上げると、開きかけの扉に半身を隠してしまった。
「ど、どなたですか……」
得体の知れない、長い耳の獣人を目の当たりにした青髪の幼女は、顔の半分だけを覗かせながら、恐る恐る問いかけた。
「私は……、うッ!?」
自分は怪しい人間ではないと、釈明しようとしたケリーは、またしても頭痛に襲われる。声を出そうにも出せず、痛みに絞り出した声が、脳髄を縛り上げんとばかりに、縄となって絡みつく。苦悶の果てに、ケリーはその場に倒れた。
「……お姉さん!」
怪しげな獣人の動向を見守っていた幼女は、ケリーが昏倒したことに、一瞬、目を覆った。しかし、彼女が助けを求めていると解したか、すぐに扉を開いて、駆けつけてきた。
「大丈夫ですか!?」
切羽詰まっている声の端々に、優しさが滲み出ている。自分の声は、あれ程までに脳をいたぶったのにも関わらず、この幼女の声は、むしろ癒やしのように耳に快い。やがて、頭の痛みも引いてきた。
「あ……、ありがとう。もう、大丈夫であります…………」
小さな声で呟けば、多少なりとも頭痛も和らぐ。掠れたような声で受け応えると、幼女はホッとしたような表情で、弱く微笑んだ。
(それにしても……。この女の子、アテナさんそっくりでありますな)
呼吸を整えて、改めて幼女を間近に観察してみると、その髪色も、顔立ちは、アテナによく似ている。また、ケリーは知らないであろうが、たおやかな仕草や声音にも、色濃く面影があった。
(ここが、アテナさんの脳内、心象界であれば、この子は彼女の精神の具現……。そんなところでありますか?)
マナへと身体を変換することにより、直接に魔法の病巣を摘出する術式。この事態を術式の延長と見るならば、アテナの心の中の宮殿のどこかに、病巣が隠れているはずである。それを心から引き剥がし、心象世界から脱出すれば、アテナを半永久の眠りにつかせる理由はなくなる。
「この家のどこかに、何か悪いものがいないか。私に教えてもらえないでありますか?」
幼いアテナが案内したのは、扉を二つ、三つと潜った先であった。部屋を違う毎に、内装も雰囲気も一挙に変わる。激しい往来のある石畳の道の真ん中にある、木の戸を通れば、次に現れたのは、瓦礫の散乱する町並みであった。
「ここ……」
そう言って、アテナが指差したのは、彫刻の施された、焦茶色の扉である。それは、ケリーにも見覚えのある、ワルハラ鉄道の客車のものである。
「この奥に、残滓があるみたいでありますな」
禍々しい気配が漏れ出ている。今まで通ってきた空間の、そのどれよりも異質で、おぞましい空気感。ノブに手を触れることさえ躊躇われる程だ。
しかし、ここで足を止める訳にはいかない。ケリーは魔術医師として、苦しむ人間を放ってはおけなかった。意を決してノブをひねると、扉は音を立てずに開いた。