この丘に
「私は家に入るわ。少年は?」
「鍛錬がありますんで」
ヒカルが、左手の刀を示すと、ソフィは片眉を上げた。
「鍛錬は勝手だけど、気をつけなさいよ。その魔力は餌になるんだから……」
ヒカルは、その事実にはたと思い至り、口をつぐんだ。もし、虎狼が押し寄せようものなら、ヒカルやソフィ、戦える者ならば、自分の身を守ること位はできるかもしれないが、イーリスや、治療を施されているアテナは、それらに抗うことは難しい。踵を返そうとしたヒカルに、二階の窓からケリーが声をかける。
「それなら心配いらないでありますよ。マナに敏感な魔法動物にとって、裁き人由来の悪性のマナ程、嫌われるものはないでありますからな」
虫除けのために焚く煙のように、治療によって散らばる悪性のマナは、周囲に垂れ流しになる。専門家の言葉ならば、信用してもよいだろうと、ヒカルは森に向き直った。
鍛錬といっても、特別なことをする訳ではない。型を確かめ、刀を振り、走り、瞑想を行う。これら様々を、無心の状態で行うというのが、少年の一連の鍛錬であった。一心不乱に刀を振るった少年は、森の木々に囲まれながら、胡座をかいた。
呼吸を整えようとすると、濃密な森の空気が、肺を内から大きく膨らませようと、次から次へと流し込まれるかのように入ってくる。森の力たる木のマナと、それを育てる水のマナが身体を巡り、循環し、心身の不健康を押し流していくようだ。
そうして、空気の流れるまま、呼吸の続くまま、心臓の動くままにして、糸をより合わせるようにして、精神統一を図る。刀の放つ一筋の光のように、すらりと通る揺るぎない一本を目指すのである。
しかし、今宵は何かが違っていた。理由の分からぬ胸騒ぎが、水面に落ちる雨垂れのように、ヒカルの鍛錬のリズムを乱していたのだ。
(何だ、アテナのことか、ケリーさんのことか、裁き人のことか、それともあの女の子のことか……?)
心当たりは山程にある。どれもこれも、ヒカルを思い悩ませていることは確かであるのだが、それだけが理由だとは、どうしても考えられないのだ。
(重大な見落としがあるような気がする……、何か、何か恐ろしいことが降りかかろうとしているのに、それが見えているのに、気づいていないような……)
このような、迷いが振り切れない時には、それらを些末事として一端忘れて、ひたすらに刀を振るうのがよいと、彼は知っていた。故に、刀を抜いて、縦に横にと、様々試してみるのだが、いまいち切れがない。
「こんばんは、修行ですか?」
そんな懊悩の中に、声をかける者がいた。冬の夜の森の中、ヒカルは警戒心を大いに高める。すると、その気配を察知したのか、声をかけた女性は、慌てて手を振った。
「そ、そんな、怪しい者ではないんです。ただ私も、剣術の修行をしているだけで……」
そういう女性は、背中に負っていた二本の木の棒のようなものを下ろした。
「こっちは木刀……、そっちの長いのは、竹光ですか?」
ヒカルは、驚きと、多少の呆れを隠さずに、女性の持ち物を吟味する。木刀は、ヒカルの持つ刀と同じ位の大きさであるが、竹光の方は、常識外れな程に大きい。ヒカルの身の丈を優に超える大きさである。
「私の師は、お前は身体が小さいんだから、大きな刀を使わないと駄目だっていうので、こんなものを用意したんです。えへへ……」
「あぁ……、分かります。俺のじっちゃん、いや、師匠もそういう考え方だったんで」
ただし、ヒカルの育ての親の老爺でも、ここまで大きな得物は使わなかったが。ともかく、この女性は、ヒカルが今までに会ったことのない部類の使い手であるらしかった。
「失礼ですが、お名前を聞いても……?」
「ヒカルです、貴女は」
ヒカルが尋ね返すと、女性は少し考えるような素振りをしてから、恥ずかしげに言葉を返した。
「ノラサーネといいます。……中々聞かない名前だとは、思うんですけどね」
女性、ノラサーネは、そう言ってはにかんだ。黒く短い髪が、夜風に柔らかく揺れた。
「それで……、もしよろしかったら……」
「手合わせ、ですか?」
ヒカルの言葉に、ノラサーネは嬉しそうに頷いた。まぁ、わざわざヒカルに話しかけ、刃はついていないにしろ、得物を見せた訳であるから、始めからそのつもりだったのであろう。それを承知で、ヒカルも会話を続けていたのだ。断るはずもない。
お互いに、怪我をさせる訳にもいかない。ヒカルは、彼女の持つ二本の内、木刀を選ぶことにした。大きさは、ヒカルの持つ刀とほぼ同じ、重さもそれ程変わりない。多少大振りである刀を振るってきた少年の手には、よく馴染んだ。
必然的に、ノラサーネは、極めて長大な竹光を選択することになる。軽い竹光とはいえ、その大きさのために、構えるノラサーネの腕は震えている。平素から使っている人間でこのようになってしまうのであるから、ヒカルに扱える訳もない。
さて、不動の大勢で構えるヒカルに対し、ノラサーネは小刻みな震えを堪えながらに、力を奮って立っているという様子。ヒカルはぼんやりと、特注であろう長い竹光を壊さないかと、そればかりを不安として抱いていたのだった。