野放しの悪
夕餉は、粛々と進む。料理の味は、どれも王都の料理屋で供されてもおかしくはない出来であるのに、舌が麻痺したように、まるで味がしない。皆の頭の真ん中を塞ぎ、夕食のことを意識外に追いやっていたのは、紛れもなく、謎の砂金であった。
黒魔術師が、鉱山における作業員の消失と、工場の立ち入り禁止、そして、川や坑道の羽根に残された金、その全てに関わっているとなれば、今までのどの黒魔術師より強力ということになる。
「アーレンツ伯が、黒魔術を行っていたという噂は?」
「さぁね、切れ者で野心家。あることないこと騒がれてたから、嘘か本当か、分からないわよ」
スープを飲み干し、ナプキンで口元を拭ったソフィが、椅子を引いて立ち上がる。それに続いて、横に座していたアレクセイも、席を立った。
「もう、行ってしまわれるのですか?」
「ん、もう少しで、見回りの交代時刻で。あっしが行かないと怪しまれましょうから」
そう言って、扉が開かれる。冷たく乾いた外気が、さっと部屋を駆け巡り、すぐに散り散りになっていく。部屋は、再び湯気と静寂に包まれた。
「少年、ちょっと」
皿の底が見えてきた。縁に、黄色の花輪が周る白い皿の底には、向日葵のような形の、赤い花が描かれている。白濁としたスープの奥に見えるそれは、一体何という花なのか、ヒカルには分からない。
「聞こえてないの、ねぇ、少年!」
「あっ、すいません。考えごとをしてて……」
何も、花の名前を必死になって考えていた訳ではないのであるが、ソフィが声を張り上げて初めて、ヒカルは呼ばれていたことに気づいた。
「まったく……、それより、ちょっと話があるんだけど」
ちらりと丸窓から、外をうかがうソフィ。さては、人に聞かれたくないことでもあるのか。ヒカルは勘ぐった。スープの皿の中身を掻き込むと、椅子を立った。
「何です。何か、まずいことでも……?」
ソフィは、ヒカル越しに、部屋の中を見た。鼻歌を歌いながら皿を洗うケリーと、テーブルの上の食器を片づけるイーリス。
「あまり耳に心地よくはないかも……。とにかく、行くわよ」
それだけ言うと、ソフィは扉を開けて、さっさと外に行ってしまった。
夜の風は、ヒカルに、コートに袖を通すことを強要するのだ。刀を振るう人間である以上、だぼついて、動きにくくなることは御免であるのだが、しかし、この寒さでは、着ないという訳にもいくまい。
「……質問があるのだけれど」
ソフィは、月と風を背にし、腕組みをして立っていた。その語調は、怒っているようでもあり、また不安を努めて隠そうとしているようでもあった。
「あの、女の子のことですか」
ヒカルの抱える、第一の不可思議を口に出すと、ソフィは、それはそうなんだけれども、と言い淀んだ。
「……少年のことを、私はよく知らない。でも少年が、雲を掴むような失踪事件の謎に、挑み続けているのは知ってる」
抉るような視線が、ヒカルを捉えるが、それを正面から跳ね返すかのように、少年の目も真剣だ。
「その女の子から、情報を引き出すことだって、できたはずなのに。どうしてそれをしなかったのか、それが分からないのよ。……もしかすれば、裁き人と深いつながりがあるのかもしれないし」
ヒカルは黙考した。確かに、あの童女は何か、ヒカルたちの知らないことを知っている。皆が見通せない、混迷とした未来でさえも、彼女だけははっきりと見通している。それこそ、事前に知っていたかのように。仮に彼女を捕らえて、情報を聞き出したとすれば、事件解決のための大きな進捗となったに違いない。また、二度の遭遇から、彼女が神出鬼没であることは折込み済みであるから、目の前の機会を、ヒカルはみすみす見逃したということになる。
「でも、できないんです。確かに、あの子は知ってる。だけど、絶対に話してはくれない……」
「確かめてもないのに決めつけるのは、少年らしくない。少年は、王都の一件の時も、限りなく可能性の低いところにかけて、それを勝ち取った。今日のことだってそう。説得してもいい、頭を下げて頼み込んでもいい。何なら、その刀を抜いて、脅しをかけても構わない……」
淡々と述べていくソフィ。それら一つ一つは、論理的に考えれば、もっともな意見ではある。しかし、実際に少女を見たことのあるヒカルからしてみれば、それらの提案は実現不可能であることは疑いないのだ。明らかに彼女は、存在の質が違う。ヒカルの住む世界の裏側から、失踪事件を観察していたから、全て分かるという風な振舞い。影絵の手の動きを熟知しているかのような、行為の数々。或いは海のように、或いは世界の柱のように、彼女は常に何かに君臨しながら、唯一絶対の何かとして、ヒカルの前に現れる。それを言葉で説明することなど、できようはずもない。
「盗人を匿う雪山みたいに、絶対に正しい道を示してくれる。それが分かるんです、だから従った」
雪山は気まぐれだが、悪人の逃げ場所には向かない、という話がある。もし、雪山が晴れていれば、盗人の足跡を辿って捕まえることができるが、雪が降っていれば、足跡は消えてしまう。しかし、逃げ込んだ盗人は寒さと飢えによって、自らの身を滅ぼすことになる。どちらに転んでも、雪山は悪を野放しにはしておかないのだ。
ヒカルの言葉を聞き、目を見たソフィは、どうやら納得したようであった。白い息を吐きながら、口の中で何事かを反芻する。
「…………少年、イヴァンに似てきたんじゃない? 私が言いくるめられたのは、いつ振りかしらね」
苦笑いのソフィは、どこか楽しげに見えた。