招く白い手
どの位の時間が経っていたとしても、ヒカルは驚かなかっただろう。次に気がつく時は、来世であるとさえ思っていた程だ。しかし実際のところは、開かれた彼の目の前には、サナトリウムの廊下を背景に、白い手があるだけであった。
「……うわっ」
意識が覚醒し、自分の置かれた状況を把握していけば、その白い手の正体は、自ずから明らかである。後ろは壁であるのに、思わず後退ろうとするヒカルに、白い手の人間が話しかけてきた。
「逃げなくてもいいのです、ヒカル」
耳朶を打つのは、紛れもなく自らの名だ。何故、この人物は自分の名を知っているのか。何故、この人物は攻撃してこないのか。敵でないとすれば、一体どうしてこんな場所にいたのか。様々な問が頭を駆け巡る。
「私をしっかりと見なさい、恐れないで」
混乱のヒカルを導くように、透き通った声が降りかかってくる。どことなくあどけなさが残るような、それでいて気品の溢れる不可思議な響きだ。ヒカルは、それをとこかで聞いたことがあるような気がした。
「あっ。君はあの時、王宮にいた……」
目線を徐々に上げたヒカルは、ようやく、その人物を認識した。ヴェイルに発つ直前、イヴァンと決裂し、露頭に迷っていたヒカルに、進むべき道を示した童女であった。とにかく、敵でないことは理解できた。
「ど、どうして、このサナトリウムにいるんです?」
「貴方を、待っていた」
残る疑問を発したヒカルは、唐突な返答に、二の句が継げなかった。答えにすらなっていないような言葉に戸惑うヒカルに、童女はゆっくりと口を開く。
「気をつけて。裁き人は既に、貴方のすぐそばにいる……」
童女に連れられるままに、ヒカルは建物の奥へ、奥へと進む。ヒカルは、童女の後ろにいると、心なしか呼吸が楽になったように感じた。彼は、童女の能力がそうさせているのではないかと早合点していたが、何のことはない、ヒカルの刀と童女の防御魔法の激しいぶつかり合いによって、周囲の悪性のマナが浄化されたのである。
しかし、それでも尚、重苦しさは拭い切れない。進めば進む程に、埃が堆く積もる部屋には、ベッドがそのままに残されている。割れた花瓶についた、乾いた水と枯れた花の跡。床についた染みとシーツの切れ端。戸棚の食器と医療器具。隙間風は、病臥する人々のうめき声のように、ガラスを鳴らす。
「何故、このサナトリウムは閉鎖されたんですか」
前を行く童女は、振り返らずに答える。
「見れば分かると思うけれども、ここには、あまりに穢れが溜まりすぎた……。病人を収容しておくには、環境が悪くなりすぎた、そういう理由」
虫が足元を這いずりまわるのが、嫌でも目に入ってくる。その虫たちの進む先には、元々は壁の一部であったであろう瓦礫が、床に散乱した、荒んだ印象の部屋があった。
「そうじゃない、別の理由があるんじゃないですか?」
仮にサナトリウムが、病人たちの放つ、裁き人由来の悪性のマナによって汚染されていったのだとすれば、事実と噛み合わない。
ベッドの数から見ても、ここには常時、百人弱の人間がいたであろう。汚染が起こっていたことがサナトリウム閉鎖の理由であるとすれば、それは漸次的に進んだに違いなく、完全な封鎖を行う前に、何らかの対策を行うことはできたはずだ。
しかし、現実に目を向けると、ベッドもシーツもそのまま。食器も医療器具も運び出されることもなく、また、建物自体も取り壊されることなく残っている。これはつまり、何か別の原因があって、汚染が急激に進んだということを意味しているのではないだろうか。
「あの壁だってそうです。外から突き破られて、瓦礫は内側に入ってきている……。何かがあったんでしょう」
童女は、今度は振り向いた。顔を覆う白い布の脇から、ちらりと横顔が覗く。その人相までは分からなかったが、目の端まで見開かれていることは、ヒカルも読み取れた。
「裁き人が、ここに来たんですか」
「天性の勘の良さ……、それだけを標とするのは、あまりに危うい…………」
観念的な童女の言葉は、その受け取り方を、ヒカルに委ねているようでもあり、また皇帝、イヴァンのように、答えを知っていながら、その答えを見つけさせようとしているようでもあった。
「あれっ……?」
目を閉じ、いざ、その答えを探ろうとしていたヒカルは、不意に訪れた静寂に、目をしばたかせた。自らの眼瞼の内なる黙考に耽っている間に、童女は、その気配すら残さず、消えてしまっていた。声をかけても返事はなく、ただ眼窩のようなサナトリウムの窓に、無意味なエコーが乱反射するだけである。
(一体、何だったんだ、あの子は……。ただの人間じゃない……、二度も俺の前に現れては、俺を進むべき道へ導いてくれているみたいだ……)
進むべき道は、或いは正しい道ではないのかもしれない。サナトリウムに生きて、そして身体だけを残して去っていってしまった人たちの中に、両親を失った少女の幻影を見たヒカルは、拳を固く握った。
「ん、何だ……?」
その握った右の拳に、何やら違和感がある。ふと見てみると、そこには、真っ白の布があった。その温かみと湿り気から推察するに、童女の顔にかかっていた、あの布だろう。
どうして、これが自分の手の中に、と問う間もなく、ヒカルの頭に、童女の声が響いてきた。
『その布には、悪性のマナの術式が練りこまれている。それをあの魔術医師に渡せばよい』
「……分かった」
ヒカルは虚空に向かって頷き、踵を返した。軋む床を踏みしめつつ、ヒカルは、陽光溢れる玄関に向かっていった。