両肩に生死
(ここか……)
単調な、緑の森を突き進んでいたヒカルは、空気の変質を具に感じた。森の中の、肺臓を草いきれに満たそうとする、活発なる空気とは違う、夜の時計塔の影のような、吸い込まれるような淀みに、美しさと醜さを共存させた空気が、森を切り取るように漂っている。
巨大な塀に囲まれた、青白い壁の建物。かつては、裁き人によって毒された人々を治療するためのものであった。しかし今では、その毒を受けて、一転、底なし沼にすり替わっている。塀の中には、白い骨が覗く。動物のものであろうが、いつ人間のものに出くわすか、分かったものではない。
「鍵は……、よし、開いた」
深呼吸をして、気持を少しでも落ち着けたいが、なるべく毒素を身体に入れたくはない。手元の布切れで口元を覆って、ヒカルはいよいよ、塀の中に足を踏み入れた。
(くッ、肩が……)
一歩、足を踏み入れた瞬間に、ケリーが匙を投げた、その意味を、ヒカルははっきりと理解した。建物の中は、まるで水の中のように、何かの気配がまとわりついてくる。それが腕に、肩に、背中に、のしかかってくるのがはっきりと分かる。あまりの重さに背が丸くなり、膝が軋んだ。帯びた刀が、これ程までに負担となるとは、思いもよらなかった。
(これで襲われたら、勝ち目はない……。マナに関しては鈍感だと思っていたんだけどな……、予想以上だ……)
裁き人の残滓は、蛇の形をしているのか。僅かに、しかし確実に弱っていくヒカルの足を捉えて、歩行を妨げる。
床がたわみ、思わず丸窓に手をかけるヒカル。その窓の反射に、何かが動いた。
「えっ……」
理解不能。風ではないであろう。ともすれば、ヒカル以外に誰かがいるということになる。この環境に身を置くことができるのは、黒魔術師か、或いは裁き人か。背中に走る粘液質の汗が、今の生を呼び起こすが、それは次の瞬間の死への秒読みかもしれないのだ。
右手は、ゆっくりと刀の柄に伸びていく。ただ、相手如何によっては、この刀すら、棒切れ程の意味しか持たないかもしれない。口に当てがった布切れが、荒い呼吸に湿り気を帯びる。張りつく感覚に、真っ黒の現状に、窒息を覚悟する。
「誰だ、そこにいるのは!!」
自分の声の震えに気がつかない。それ程の緊張のただ中で、ヒカルは必死になって、自らを研ぎ澄ましていた。下手に逃げることはできまい。背中を見せて、弱気であることを示してしまえば、命など、朝露のように払われるであろうからだ。
「誰だ!!」
尚も、叫ぶように問いかけるヒカルに、人影は、返事をしない。蹲って、何をしているのかも分からないそれに、ヒカルは蝋燭のようにして待つのである。直立不動の姿勢の中に、僅かに震えが残る。垂れた生温い汗が、いくつもの玉を床に描いた。それが十を数えた時、終にヒカルは痺れを切らした。
「答えろ。お前は、裁き人か」
抜刀したヒカル。淀んだ空気の中では、刀は普段にも増して輝いているように見える。しかし相手は、それを感知しても尚、言葉を発することがない。
「さもないと、切るぞ……」
構えた刀に、意味があるかも分からぬ中で、ヒカルは呼吸と鼓動に襲われていた。目の前の、得体の知れない生体は元より、自らの緊張に、自由を奪われていたのだ。手の震え、指の硬直と、湿り気を帯びていく刀の柄とが、ヒカルを追い詰めていたのだ。
(くそっ、答えてくれ。じゃなきゃ、本当に……)
生と死が、両肩に触れている。正しい方を選び取る、二者択一。相手の扱い方に、間違いは許されない。ヒカルの恐れは、いよいよ頂点に達していた。刀を握り替える余裕など、なかった。
尚も無言の相手に対し、ヒカルもまた無言で取りかかる。肺の空気を、強く息を吐いて押し出し、動かないながらに、できるだけ強く、床を蹴り、距離を一気に詰める。勝負は一太刀、それが防がれてしまえば、一巻の終わりである。
(届け、届け、磨いてきた刃だ。今この時のために……!!)
「……『守衛せよ』」
そのまま振り抜かれれば、狂いなく首を飛ばしていたであろう刀の軌道が、中空で折れ曲がる。ヒカルの攻撃は、謎の人物が展開した、幾重にも重なる防壁に妨げられた。突進の勢いそのままに、跳ね返ってきた反動によって、ヒカルは廊下を転げる。背中に、強い痛みが走る。
「……がッ」
そうして、うめき声が口から漏れ出た。衝撃に目がかすみ、意識も遠退きかける。既のところで保持した視界に、ぼんやりとした影が映り込む。
(コイツが、裁き人……、なのか……?)
身の丈は、それ程大きくはない。しかし、その存在感は圧倒的だ。裁き人であろうとなかろうと、強力な使い手には間違いはない。それが、どんどんとヒカルに近づいてくる。
「くっ……、来る、な……」
途切れ途切れに言葉を紡ぎ、必死に訴えかけるが、そんな言葉に、まともに取り合ってもらえるはずもなく、無情にも足音は確実に、床に転がった命を送り出すための葬送曲のリズムで迫る。
刀を握る力を振り絞り、最後の抵抗を試みるヒカル。一度浮いた彼の腕が、振るわれることは、なかった。