それでも進む
「駄目です、そんな危険なことに、ヒカルくんを巻き込むなんて……」
訪れた沈黙を打ち切ったのは、イーリスであった。過敏なまでの彼女の反応に、ケリーは目を細めた。
「慧眼でありますなぁ」
会話を聞いている内に、ヒカルにも徐々に、ケリーの思惑が見えてきた。彼女はヒカルの、マナに対する鈍感さに目をつけたのであろう。確かに、今までの戦いの中でも、ヒカルは黒魔術による悪性のマナに対して、影響を受けにくかった。それは抵抗力が強い訳ではなく、単にマナの取り入れが不十分であるだけなのであるが。
少年の先天的な特徴を、ケリーは出会った時に見抜いていたのであろう。その特徴と、悪性のマナが滞っていて立ち入れないサナトリウムとを結びつけるのは、難しいことではなかった。裁き人に関わるものを扱う以上、無関係な者に任せるより、ヒカルがそれを行った方がよいという理屈なのだと、ヒカルは予想した。
「ヒカルくんは、マナを感じ取ることができないんです。もし、毒が身体中に回ってしまったら、どうするんですか!?」
「ちょっと落ち着きなさい」
覚えず声を高くするイーリスを、ソフィが嗜める。しかし、当のケリーは、尚も笑みを崩さない。
「それ以外に、方法も思いつかないでありますし。それに、彼は断れないでありましょう」
果たして、彼女の言葉通り、ヒカルは生唾を飲み込み、拳を固く握って、ゆっくりと頷いた。
「サナトリウムは、どこにありますか」
「西に伸びる道の先に」
短い会話と共に、ケリーの手の中にあった鍵が、ヒカルに渡っていくのを、イーリスは黙って見ていた。ヒカルは、暗い決然とした眼光のままに、扉を開いた。
「アテナさんの治療も、進めておくであります。裁き人に関わるものや、マナの残留物があれば、何でも構わないので、持ってきてほしいであります」
ケリーの放つ言葉が、進むヒカルを追いかけてくる。ヒカルは振り返らずに、無言で頷いた。振り返れば、様々な意図を持った、盤根錯節とした視線に絡めとられて、歩むことができなくなるであろうことは、想像に難くなかったからである。
「それで、お二人はどうするでありますか?」
ベッドに寝かされたアテナを囲むように、魔鉱石を置いていくケリーが、残されたソフィとイーリス、二人の女性に尋ねる。ヒカルとアテナについては、既に方途が立っていたために、まるで興味がないという風の物言いである。
「……鉱山を見て、工場を見て、帰るけど」
ぞんざいな態度には、ぞんざいな態度で返すのみだといわんばかりの、突き放すようなソフィの言葉。元より、この魔術医師に用があった訳ではない。早急に調査を進めて、速やかに帰るのがよいと、ソフィは歩き出しながら考えた。
「じゃあ、お邪魔したわね」
怪しげな光の燈る部屋を一瞥したソフィは、そのまま行ってしまった。その後を、急いで追いかけていくイーリスの姿を、ケリーは横目で見送った。
「難儀でありますなぁ……」
森の中を進んでいくと、ますます濃くなっていく緑に、驚かされるばかりだ。雪が降ってもおかしくはない季節であるのに、森は夏の景観である。
「すごいですね。鉱山の影響がこんなに……」
蝶は、弱々しくは飛ばない。ハリのある、気高い飛翔が、二つ、三つと道を横切っていく。その様子に、ソフィは眉を顰めた。
「おかしいわよ、流石に」
森の緑の明度は、鉱山に近づくにつれて高くなってきている。鉱山から大量の水のマナが溢れてきていることの証左であった。本来ならば、掘削された魔鉱石はすぐに工場に運ばれ、加工、運搬されるはずである。これ程の放出が、起こるはずもないのだ。
「それって……、急いだ方がいいですよね」
鉱山の異変と、工場の停止とは、何らかの関係があるのだろう。嫌な予感が頭を掠めるものの、それは歩みを止めてよい理由にはならない。不安は、否が応でも両唇を固くさせる。ソフィは、イーリスの質問には答えることなく、ただただ進む、進む、進む。
「……あ」
濃密な気配に、身体が溶け出していくようである。粘っこい大気に押し戻されそうになりながら、それでも、やっとの思いで辿り着いた鉱山の光景は、二人の予想を覆すものであった。巌の両唇を打ち欠いて、驚嘆とも恐懼ともつかない、静かな悲鳴が漏れ出す。
そこは、確かに鉱山であった。しかしそれは過去の話だ。今、目の前に広がるそれは、一面が緑に覆われた、苔の山のように見えた。鉱山の、鼠色の岩肌に被さるように、森が侵食してきている。
「本当に、ここで合ってるの……?」
ソフィは、そう自分で口にしながら、疑問の意味がないと断じた。ここが、魔力の頂点だ。この森に垂れ流される魔力の起点が、この場所なのだ。それが鉱山でなかったのならば、一体何であるというのか。
「あ、あそこに虎狼が……!」
「そんなに大きな声を出さないでよ!! 分かってるわよ、見えてるんだから!!」
もう一つ、異様なことは、作業員が一人もいないことである。本来であれば、百人はいたであろう人員が、忽然と消えている。代わりに闊歩するのは、森の動物たちだ。虎狼の眼前に兎が跳ねまわり、鳥が遊ぶ。楽園のような景が、そこにはあった。
「まるで、夢の中みたいですね……」
寒空を背景に広がる、絵本の物語のような理想郷を前に、イーリスはぽつりと呟いた。捕食者も、被捕食者も関係なく、まどろみの中にある。完成された光景は、現実では土台あり得ないものである。
「悪いがね、お嬢さん方。夢じゃねぇんですよ」
しかし、現実は現実。その宣告は、銃を突きつける硬質な音と共に、二人の耳に届いた。