国境線の町
「……浮気性の女たらし」
太陽が低く上り、清らかな空気が肺を満たす冬の朝。窓辺の童女は、開口一番にそう言った。
「ヒカルくんは、そんなんじゃありませんよ」
ソフィの所望の品、つまり、朝の珈琲を取りに行っていたイーリスは、多少の苛立ちを覚えたのか、やや声を荒げて反論した。
「別に、あの少年のことを言ったんじゃないのよ」
振り向いたソフィは得意気に、読みかけの本を指で弄ぶ。釈然としない、嵌められたと、メイドの少女は感じた。
「……昨晩の会話、聞いていらしたんですね」
「あんなに声を出すんだもの、聞きたくなくても聞こえるわ」
ソフィは、廊下の方をチラリとうかがった。当の本人が通らないかと、彼女なりの配慮をしていた。
「それに……、貴女の気持だって、分からない訳じゃない」
「…………そう、ですか」
気を取り直したように笑顔を作ろうとするイーリスであるが、ぎこちなさまでは隠し通せていない。人に対しては、努めて冷静を保たんとするソフィであったが、目の前の少女に関しては、不思議と助けの手を差し伸べたくなるのである。
「はぁ……、煮え切らないわねぇ……。とにかく、明日からは、四人で一緒に行動するから」
昼夜を問わず走り続ける列車は、旅程表通りにワルハラを横断し、目的地であるアーレンツ辺境伯領に近づきつつあった。
一週間弱の移動はつつがなく終わり、一行は下車する。辺境という名を関する位であるから、鄙びた田園のような場所を想像していたヒカルであったが、たどり着いたのは、ゲレインには劣るものの、比較的大きな交易都市だった。
「大きい建物だな。俺の町にはこんな建物、なかったぞ」
往来の激しさは、戦争故なのか、はたまたこれが平素の姿なのかは、ヒカルには分かる由もない。それにつけても、活気ある町だ。
「当然よ、あの奥に霞んで見える塀が見えるかしら」
ソフィが指差す先に、ヒカルが目を向ける。建物と建物の間から、遥か遠くに青く霞む石の壁が、確かに見える。見渡せば、東西に、かなりの長さがあるようだ。
「あれは、ワルハラの南にある、青龍国との国境線。この町は、東方交易の根拠地であると同時に、有事の際には軍事拠点にもなる」
流石に、ワルハラ帝国王宮で、武器の管理をしているだけのことはあって、ソフィは戦争戦略に関する知識も豊富なようである。確かに、町の外周にも城壁と堀が巡らされており、ワルハラの東の防衛を担う都市としての性格が、はっきりと現れていた。
「ソフィ様。早速、アーレンツ伯の元に行きましょう。陛下からは、可及的速やかに、とのお達しが出ていますから……」
「もう少し待ちなさい。それより先に鉱山と……、この少女をどうにかしないとね」
ソフィは、ヒカルに呆れたような目線を投げかける。というのも、動けないアテナを運ぶために、ヒカルは彼女を背負って行動しているのだ。そのための疲れも然ることながら、イーリスの鋭い視線が、先程からヒカルに刺さっているために、精神も休まらない。いくら鈍感とはいえ、ヒカルにも彼女の心情は、何となく読み取れた。
今までの悔悟とはまた違った、失敗の可能性が、持ち上がってきたのである。
「馬車とか、ないんですか……?」
「用意できるんなら、したかったわ。歩くのって面倒だし……」
用意できないのには、理由があった。もし仮に、アーレンツ辺境伯領を訪れたのが、軍需大臣、エルヴェであったならば、堂々と馬車で乗り込んで、正面から辺境伯を尋問することができたのだろう。しかし、実際に派遣されたのは、王宮に附属しているとはいえ、一介の武器庫の管理人である。適当にあしらわれてしまう可能性も、十分あり得る。
やむなく皇帝とソフィは、先に鉱山や軍需工場の様子を探り、動かぬ証拠を突き止めてから、アーレンツ辺境伯との対談を申し入れようと計画したのだ。
「だから、できる限り目立つ行動は避けたい……。少なくとも、工場を調べるまでは……」
ソフィはそう言って、森の方へ歩き出した。その奥に見える灰色の岩壁が、魔鉱石の眠る鉱山なのだろう。
「うん、非常に嫌な雰囲気だ」
男は、誰に言うでもなく、ぽつりと独りごちた。ワルハラ鉄道の駅舎から、既に歩みを進めている、少年少女たちを見ながら。
「……珍しいですね。九条さんが、雰囲気、なんて」
黒服を着た男の傍らに立つのは、同じような黒装束に身を包んだ、小柄な女性だ。藍色の短い髪を、そのままに流している。
まるで、葬儀の参列者のような出で立ちの二人組は、周りの人間のことなど一切気にかけず、ただ森への道を行く、ヒカルたちを見つめている。
「小山内君、私だって人間なんだ。魔法には疎いかもしれないが、第六感が働くこともあるよ」
しかし、小山内と呼ばれた女性は、男の言葉を、正直に受け止めかねた。この九条という男の平素の行いは、極めて合理的であり、命令に対しては、一分の余念をも挟まない性格であるためだ。彼が第六感を持ち出すとは、やはり、相応の理由があるのではないかと、勘繰ったのだ。
(仮にそうだったとしても、私には分かりませんね……)
九条と自分の間では、経験の量も質も違う。同じ景色の中でも、彼は何か別のものを見ているのであろうと、女は思い直した。そう考えるにつけても、冬の足音が響く黒い森は、不気味である。