表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終末のアラカルト  作者: 大地凛
第四章・心界編
170/231

約束された事象

「陛下、大変です。アテナ様が病院から……」


「抜け出したんだろう。まったく、皆やんちゃだよ」


 飄々と応えるイヴァンは、全て筋書き通りであるとでも言いたげに、カスパーの、切羽詰まった報告を聞き流す。


「よろしいのですか、あそこまで勝手を許して」


 もっとも、イヴァンに対して、いくら正論を述べても、焼け石に水であろう。彼には彼なりの尺度があり、常にそれに従って行動している。尺度といっても、長さの決まっている訳ではない。その時時によって、緩くも厳しくもなる、常人には捉え難いものだ。そして事実、彼は少しも焦る素振りを見せない。まるで、そうなることが分かっていたかのように。


「アーネストたちが煩いだろうからね、正解だと思うよ。誰が入れ知恵したのかは、知らないけれど……」


「陛下……、一つ聞いてもよろしいですか」


 机の上には、様々な書類が散らばる。軍部の作戦計画、国内産業の回復のための意見書、価格統制の勅令など、種類は多岐にわたる。しかし、どれも皇帝が目を通すものとして、かなり上質な紙が使われていることは、傍から見ても明らかである。


 その中で、異彩を放つものがある。黄変した古紙に走り書きされた、掠れた文字。清冷とは無縁なメモ書きが、皇帝の椅子の正面に置かれている。


「陛下は、何故そこまでの自信を持って、あの二人の行動を見ていられるのですか」


 古文書の一部なのだろうか、切り取られたような跡のある紙片には、古いワルハラの文字が、小さく書きつけてある。拾い読みすると浮かび上がるのは、“失踪”“少年少女”“アーレンツ”の文字だ。


「何に依拠して、あの二人に放任なさっているのか、私にも分かるように、説明してはくださりませんか……?」


「…………」


 イヴァンは、無言のまま、しばし身体を固めた。微動だにしないものの、脳髄は回転数を上げているはずである。その僅かな沈黙の後に、イヴァンは意を決したように、話し始めた。


「全て、決まっていることなんだよ。数千年の昔から……」



 何もない荒野を切り裂いて、鉄道はひたすらに東を目指す。かつてワルハラ人たちは、太陽の登るところを求めて、未踏の地を開拓していったという。そんな探検家と、巨獣や大自然との戦いは、説話集に大量に収められている。森は、山は、恐怖の対象から、次第に人間の制すところとなっていった。


「ヒカルくん……、まだ、起きてたんですか?」


 何千回、何万回と繰り返されたであろう月の満ち欠け。今、空に浮かぶ月は、徐々に太ってきている。おかげで、遠くの山までよく見える。


 観想に浸るヒカルの耳朶を揺らしたのは、ソフィに同行するメイド、イーリスの声であった。常に身につけているメイド服ではなく、落ち着いた風合いのネグリジェである。


「いや、月は、結局どこで見ても、変わらないな、なんて」


 感傷に浸っていた訳でもない、故郷にいた頃は、夜は早くに寝て、朝は早くに起きる生活を、延々と繰り返すのみであった。毎日が、それなりに忙しく、物思いをする暇もなく、あまつさえ月をぼんやりと眺めることなど、なかった。


 しかし、このような時間ができてしまったからこそ、観想によって内省できると、ヒカルは前向きに考えていた。


「でも、もう日付が変わりましたよ……。それに、冷え込みが強くなってきますし……」


「分かってるよ、心配かけてごめん」


 二つある寝台の内、よい方をアテナにあてがった。残るもう一方は、発条が格段に弱いのか、眠れぬ程の固さだ。だから、眠ろうとする意味もないといえるかもしれない。


「でも、とにかく身体を壊さないようにしてくださいね……。ヒカルくんまで持ち崩しちゃったら、私、心細くなっちゃいます……」


 ヒカルは、びくりとして振り向いた。不安気な面相に、涙の筋がついている。


 ヒカルは、今まで彼女が、どれだけ眠れぬ夜を過ごしてきたのか、今更ながらに気がついた。失踪事件によって一夜の内に親をなくし、途方に暮れていたイーリスは、つてを辿って、エルヴェに仕え始めた。しかし、いくら働けど、夜の不安は紛れることはない。眠りの海に浸かっては、また生きて起きることができる保証はない。同じ寝台で目覚めるか、棺の中の動かない身体として、次の目覚めを待つことになるのか、はたまた無間に放り出されるのか。普通の人間ならば思い至らない感覚であろうが、イーリスには、そして、ヒカルには分かる。裁き人の暴力が、身近な人々に振りかかった、暗い経験を持つ者ならば、夜の怖さは、自ずから明らかである。


「陛下が、裁き人を倒すと、ヒカルくんと約束したって聞きました……。でも私は、裁き人を倒すために、危険なことをして欲しくない……」


「どうして……」


 それは尋ねずとも、鈍感なヒカルにも分かることであった。


「私の周りの大切な人たちに、もう遠くに行って欲しくないんです……。せっかく出会えた、同じ悲しさを背負ったヒカルくんが、傷つくのを見るのが、辛くて……」


 握られた小さな拳が震える。ヒカルは、月光の青白さの中で、病的に震える少女の手を見つめるしかなかった。


 そして、言葉を紡いだ。


「それでも、俺は前に進む……」


「……ッ、私はっ……!」


「でも!」


 冷たい空気が、鈴のように震えて、凪のように静まる。耳鳴りがする程の静寂、列車の走行音など、意識のどこか遠くに追いやられていた。


「でも絶対、生きて帰る。イーリスが不安なら、絶対に帰って来る。……約束する」


 少年の目は、半月の光を帯びていた。冷淡な白い光の中に、変わらぬ芯の強さがある。有無をいわさぬ力強い光だ。


「約束……、約束…………。分かりました、約束ですよ……」


 震える声が、客室の空気に刻まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ