終末への秒読み
ヴェイルも寒かったが、ワルハラは更に寒い。着実に近づいてくる冬の足音が、ワルハラの王都、ゲレインに清澄な風として響き渡る。
「一昨日は、少し雪が降りました。えぇ、本当に少しですがね」
御者は、そう言いながら曇天を見上げた。いつ雪が降ってもおかしくはない、押し潰すような灰色の空である。
「…………お帰り」
イヴァンは、氷柱のような目線で、ヒカルを打ち抜く。怒っているのか、いないのか。その本心は、皇帝のみぞ知る。
「ただ今、戻りました」
それだけ言ったヒカルは、辛抱強く、次の言葉を待つ。しかし、イヴァンも睨むように見つめてくるだけで、何も言わない。緊張の静寂、蝋燭の火の燃える音すら、聞こえてくるようである。
その静寂に耐えかねて、最初に口を開いたのは、ヒカルであった。
「陛下、もしかして陛下は、初めから俺を、裁き人を語る黒魔術師の討伐に行かせるつもりだったんですか……?」
イヴァンは、口を固く結んだまま、鼻からゆっくりと息を吐く。何事かを考えるような素振りをした後に、意を決したように、イヴァンは口を開く。
「君の行動は、予め読めてた。君ならやってくれるだろうという確信があったからね」
「それは、どこからどこまでが、本当ですか……?」
イヴァンは、応えない。無言のまま、ヒカルに背を向けて、窓の方を向く。
「……もういいです。問題は、裁き人ですから」
何かを言おうとするイヴァンの気配を察知したヒカルは、間を置かずに、次の言葉を発する。
「陛下……。裁き人の対決を、認めてくれますか……?」
「…………」
「裁き人に奪われたものを、取り返す。救えるものを、少しでも救い上げる戦いです」
重苦しい、長い沈黙。外の雲を、この王の間にも広げたかのように、空気がのしかってくる。それでもヒカルは、直立不動の体勢でもって、待ち続ける。
「……終末への秒読みか」
「……えっ、今、何と……?」
何でもない、という風に首を振ったイヴァンは、組んでいた指を離して、両の手を広げてみせた。
「丁度、僕も覚悟が決まったところさ。長く厳しい戦いになるだろうけれども、期待しているよ、ヒカル」
差し出された右手は、約束の証を求めているのだろうか。ヒカルは、緩みかけた頬をすぐに引き締めて、その右手を固く握ったのであった。
「それで……、裁き人についてなんですが、サーマンダから帰還した時、陛下は俺に、陛下の知る限りのことを伝えてくれましたよね。……諦めさせるために」
イヴァンは、重々しく頷く。彼の態度を見ていた限り、彼が嘘をついていた、つまり、情報を隠している素振りは、見受けられなかった。つまり、裁き人に関する情報は、それだけ少ないということだ。政府の続けてきた情報の規制に加え、事件の頻度は低い。あまつさえ目撃者たちは進んでそれを語ろうとはしない。そして被害者は帰ってこない。
「もっと情報が欲しいんです。誰か、裁き人に詳しい、協力的な人は、ご存知ではありませんか?」
相手は裁き人。つまり、有史以来、人類に対して、絶対の法理のように振る舞い、崇められ、敬われ、恐れられた存在。当然、人間との関わりがない訳ではないだろう。その資料が、情報が、喉から手が出る程欲しかった。
「残念だが……、ワルハラ国内では裁き人について調べたり、議論することは禁忌とされてきたんだ。だから、失踪事件についても、被害者やその行方は調べても、誰が、どうやって、ということは、あまり調べさせないんだ。……下手に刺激すれば、失踪より酷いことが置きかねないからね」
今までの基本的方針は、すなわち、刺激しないことである。一線を越えることを防ぐために、被害者数を書き換えたり、情報を統制しているということである。もっともそれは、ワルハラ国内における、平時の対応であり、例えばヴェイルにおいては、戦時中ということもあり、国民の士気を上げるために、討伐が計画されていた。恐らくそこには、相手がただの黒魔術師だと、刃を合わせる前から予想していた、フェルディナンドの存在が大きかったのだろうと思われた。
ともあれ、これ以上の情報がないというのなら、もっと地道に情報を探すしかあるまい。碑文か、古文書から記述を探したり、目撃証言から特徴を推測する。これら全て、イヴァンの恐れるところの刺激行為であろうが、そもそもこうでもしないと始まらないのである。
もう逃げはしまい、困難にも立ち向かおうと、挨拶をして退こうとした時、イヴァンは何かに思い至ったように、声を上げた。
「いた。裁き人についての知識を持った、ワルハラの人間……。協力的では、ないかもしれないけれど……」
イヴァンは苦笑しながら、その名を告げた。ペトロ・ディ・アーレンツ、ワルハラ帝国の端にその領土を有する、アーレンツ辺境伯その人である。
「確かにペトロは優秀だよ、それに忠実だ。しかし、僕の側に置いておくには、少し力が強すぎる。そこで、アーレンツを与えて、辺境伯家を新設したんだ」
「その人が、裁き人について知ってるんですね」
「そう、だね。まぁ、お互いに距離を置いているから、間違いなくそうだとは、僕は言い切れないけれど。ただ、少なくとも、ワルハラ王宮では、調べていたね」
ペトロ・ディ・アーレンツ、皇帝の口振りから、異端的な人物であるのだろうということは、容易に想像できる。ヒカルは、未だ会ったことのないその貴族に対し、大きな期待を寄せるのであった。
しかし、すぐには出立しない。ヒカルにはまだ、王都でやるべきことがあった。