救いの刃
振るわれる刀は、全く勢いがなく、それに逆刃である。とはいえ、いくら危害を与えるつもりがないとはいっても、戦意が籠もっていない訳ではない。むしろ、溢れんばかりの激情が宿っている。向けられたことのない、不可思議の感情は、実際の力以上にフアナの心身両面を翻弄した。
「私は、何人もの人を叩き殺してきた。その私を殺さずに生かしておくなんて、随分と歪んだ正義じゃない。お前がそうやって許そうとしても、私を許さない人間はいくらでもいる……。第一、犠牲なしに何かをしてやろうなんて、お前、虫が良すぎるんじゃない?」
口ではそう言いながらも、フアナは、ヒカルの一挙手一投足から目が離せなかった。不可視の刃が作り出す台風の目の中で、必死に刀を振るう少年が、苦闘の末に出すであろう答えが、一体何を生むのか。或いはそれが、フアナ自身の抱いてきたある種の矛盾に対して、どのように作用するのか。それらが、フアナの頭の中で、岩のように大きくなっていたのである。
「……確かに、それは綺麗事かもしれない……。シャルロッテは、お前を切るかもしれない。だけど、俺は、お前を切ることが正しいとは、どうしても思えない……。生きて、きっと罪を償えると……、思って……」
息を切らしながら、ヒカルが紡ぐのは、道理に照らせば、至極当たり前の理屈。しかし人間個人の感情としては、余りに合理的に過ぎる。中途半端と言われ続けた思想に、フアナが心を動かされたのは、それが相応の覚悟と行動を伴っていたからだろうか。
「納得がいかない……。ならお前は、私に切り刻まれても、同じことが言えるの!?」
少女の叫び声と共に、前後左右、様々な角度に放たれた空気塊が、ヒカルに迫る。だがそれも、一歩下がってしまえば避けられる軌道。神経を尖らせ、不可視の刃を感知できるヒカルならば、躱すことは、たとえ手負いであっても造作もないはずである。
「なら……、これで納得させてやる……!!」
しかし、ヒカルは既に腹を括っていた。踵を返すという選択肢は、端から頭になかった。そのまま、真正面に展開された、ひときわ大きな、斧のような空気塊に挑む。
「うぅ……ッ!? お前、何なんだ一体……」
二つの刃、二つの力がぶつかり合い、風が渦巻く。巻き上げられた髪に目を細めながら、フアナの顔に、初めて恐怖の色が浮かんだ。すなわち、自分が今まで心の支えとしていたものを、取り払われる恐怖である。
そして、それを取り払ってしまえば、フアナは戦う意味をなくす。ヒカルは、目的を達しながら、自身の矜持を守り抜くことができる。この刃は、いわば最後の障壁だ。
互いに力の消耗は激しく、身体は互角。さすれば、精神の勝負となる。しかし、元々天秤は大きく傾いていた。熾烈な鍔迫り合いは、長くは続かなかった。
「……ん、風が弱まってきた。ちょっと見てみるか……?」
能力を封じられ、傍観を決め込まざるを得なかったフェルディナンドは、砂埃が落ちていくのを見てとると、すぐに渦の中心へと駆けていった。その先に、縮こまる人影。姿勢が低いため、体格は分からない。恐らくはヒカルであろうが――。
(これであれが黒魔術師だったら……、笑えねぇなぁ……)
もし、この近距離でフアナの攻撃を受ければ、フェルディナンドは押し切られてしまうだろう。そうなれば、この能力には意味がない。しかし、いずれにしても行かない訳にはいかない。どのような結果でも、ヒカルが無傷であるとは、思えなかった。
果たして、人影の正体はヒカルであった。風が収まり、地面に落ちては折り重なった、瓦礫の海の中、目線を下げてしゃがみ込んでいる。刀が鞘に収まっているのを見る限りでは、戦いは、どうやら決着したらしい。その海の中で、傷一つない身体で横たわるフアナと、傷だらけのヒカルを交互に見比べながら、フェルディナンドは探るように、口を開いた。
「……ふぅん、ヒカル氏は、殺さなかったんだな?」
ヒカルはゆっくりと姿勢を崩しながら、目を閉じた。首が僅かにしなったところを見るに、頷いたということであろう。
「それより、後の二人は……」
「んん、あぁ……。あの破落戸は、どうせ道に迷ったりしてんだろうさ。……問題はシャルロッテだな。作戦をすっぽかしてどこかに行くとは、まさか思えないんだが……」
「シャルロッテが……。すぐ、探しに行きましょう」
立ち上がろうとするヒカルを、フェルディナンドは半ば強引に座り直させた。
「駄目だ、ヒカル氏は怪我してんだし、それにコイツをどうするつもりだよ。……もう少ししたらアトラス氏が来るだろ、それまで待てよぉ……」
一つ一つを丁寧に、子供に教えるかのようにはっきりと述べていくフェルディナンド、その目はどことなく真剣さを帯びている。軽薄な人物であるだけに、この目には、逆らえない。
「……わ、分かりました」
そう言って、立ち上がるフェルディナンドを、ヒカルは呆然と見送った。死線を越えたヒカルには、この先に待ち受ける、不穏な雰囲気を感知する力は、もう残ってはいなかったのである。